窓の外から重いものが落ちる音がして目が覚めた。
いつのまにか日も短くなってしまって、いまが朝か夜か見分けがつかない。まぶたを無理やり上げてカーテンを開けると、昨日とはまるで違う銀世界に目を剥く。もうすっかり冬じゃないか。
冬の、肺を凍てつかせる空気が好きだ。吸った瞬間に体中霜が降りるような心地は寝覚めが良い。暖房を切って、脇の下で丸くなる猫と寄り添う時間が何よりも幸福だ。
降り積もった雪で窓の半分が埋まっていると、なんだか自身がもぐらか何かになった気分になれるのも楽しい。誰の足跡もない雪を踏みつけるたびに消耗する体力、感覚の無い手足や耳、身震いさえないほど冷え切った体。真っ白の視界の中でたった一人枝を燃やすと、そこだけ黒い煙が上がる。
それさえ何故か愛おしいのだ。
何の生命の匂いもしない季節。
冬が始まっていた。
空白を愛でる、静寂を聴く。
冬のはじまり
真黒に浮かぶ光の束を集めた様な金髪を嫌いだといつも彼女は譫言のように繰り返す。
その温度のない暖色はまるで月の光みたいだと思った。
政府というのは使い潰しが聞かないものほど消費したがる様に思える。子供の頃から理解していたとはいえ、再度思い知らされれば、デスクの上に置かれた嫌という程見慣れた1枚の紙を見て深い溜息が漏れた。
現在、CP9全員が何処かしらで潜入調査をしている中で書類が回ってくるのは当然補佐の自分だが、どうにも向いていないものばかりが回ってくる。これならば夜にルッチやジャブラが任務から抜け出して来た方が良いように思われた。しかし、そう言おうものならすかさず目の前の上司が罵って来ることが容易に想像できてしまい、結局黙り込むしかない。
「それじゃあ期限は明日までだ。よろしく」
「……承知しました」
無表情に告げられた言葉に是とだけ答え挨拶もそこそこに部屋を出ると、廊下では現在は潜入調査中であるはずの、同じくCP9所属のカリファが立ち止まっていた。艶やかな長い髪を揺らしながら振り返った彼女は、手に持っていた封筒を見せ付けるように翳す。
「それじゃあ、任務に行きましょう」
故郷の友人からとでも言うような安っぽいフリをした茶封筒が憎々しげに揺れていた。
小さな水飛沫を上げて存外静かに走る海列車の中、海上が夜空を反射して彩られているのを車窓から眺める。そうしてチラリと目の前の彼女を見た。彼女にはあの、遥か遠くで燃える宇宙の屑は何に見えているだろう。そう考えて様子を伺ったところで精巧な陶芸品の様に美しい笑みは微動だにせず、まるで呼吸すらしていないのではと思えるほどの静けさ。ああ、彼女との静かな夜と空間には慣れている筈なのに。真暗の部屋の中、生傷だらけの身体をまさぐって微々たる欲を満たす行為は怠惰的で、いかにも私達らしい。そういう時は、声も出さないし話もしない。ただお互いの吐いた息を聞いて、真っ白なシーツに溺れるだけ。温度のない官能が私達の関係を形どっていた。
今夜の任務は謂わば、一夜限りのランデブー。だだしそこにはロマンスの欠片も無い。財を尽くした豪奢な装飾の窓越しに見えるパーティー会場では著名な貴族が数名。音もなく降り立ったバルコニーで二人きり。
「5分以内に。」
数年ぶりに聞いた声は何故か甘さを帯びていて、けれど何処か喜色めいている。まるで酩酊しているかのような心地の柔かいその声と瞳、なによりその金糸の髪が信じられないほど美しい。
ドアを合図で破壊し、逃避口を塞ぎながら見たダンスホールの真ん中で踊るように血を浴びる同僚の姿を眺める。いやに楽しげに人の命を奪うその様があまりにも鮮やかだった。それはまるで雪原の中で舞う蝶のように。普段の静かな美しさとは対照的な、狂気なまでの無邪気さが彼女を悲しい化け物だと思い出させる。本来なら、要人を確認した後火を放つなりするだけで事足りた任務。それなのに確実性を重視、なんて言い訳じみた理由まで用意して会場に踏み込んだのは、彼女の判断に逆らわなかったからだ。言葉で従わせようとすれば出来た。彼女を止めることが容易な事も知っている。それでも引き留めようと思わなかったのは、きっと私もこの時間が楽しいから。私も彼女があの海上の夜空よりもギラギラと眩く輝くこの時間を心待ちにしていたから。
スプリングがギイギイと軋むベッドの上で、微睡む美しい怪物に身を寄せて、その鼓動を聞いた。人間離れした可哀想な程の強さと美しさに惹かれながらも、一欠片残った人間的な部分を求めた。この人間によって生み出された哀れな人間もどきの、本当を知っているのは私だけなのだという優越感に浸りたくて。滑らかな柔い肌の、まだ新しい無数の傷痕の残る背中に腕を回す。あの時のように。彼女が人間を取り戻すのは、きっと人を殺した後とベッドの上だけだ。
燃やした屋敷が爆発し、飛んできた肉片に塗れながら2人で顔を見合わせた。お互いの素肌に滴る血を見て初めて目の前で笑った。私の上に乗る彼女の、カーテンの様な黄金色が赤に染められたのが黄昏を彷彿とさせて。未だ荒い呼吸に、染み付いた血の香りと焼ける肉の匂いが鼻についた。
「カリファ。」
任務の終了を確認しようと声を出すと、それを遮るように顔を覆う髪の毛と暗い紫色の瞳が真っ直ぐ私を射抜く。人を殺したばかりの血まみれの指で顔を掬われ、鉄臭いキスをした。
死に逝く人に差し伸べすらしなかった指先で愛おしい人の髪を梳く。仕事だと割り切れている時点で狂っている。それなら、世界が彼女を作ったのなら、もう合わせる必要などきっとない。どんな地獄だって彼女と一緒なら堕ちてゆける。美しい声で囁かれる願いのためにどんな事だってできるだろう。どんなに痛くてもいい。いつか忘れるくらいなら、このぬるま湯みたいな関係が永遠に終わらないでほしい。心残りばかりでは簡単に終わらせられなどしないけれど。赤と黒と金、魂にまで焼き付いたそれは間違いなくわたしの救いの色だ。ぐちゃぐちゃになったその色で、どんな地獄だって生き抜いてやろう。
きっと覚えている。忘れずに心で巣食っている。
きっと覚えていて欲しい。終末なんかでは終われないから。
季節外れの向日葵の様な髪が好きだと戯言の様に繰り返す。
私には、その透ける金色が温度のない私達に確かな鼓動を与えてくれるように思えたのだ。
夢小説。
終わらせないで
愛を知った人間は獣に堕ちてしまう
二足歩行の猿から知性を身につけヒトへと変わる
その途中で愛情を知る
愛することは人を縛り付けるということで
また自分を縛り付けるということでもある
目に見えない
手に入らない
けれど愛は結局わたしたちの中心にいて
それがなければ生きていけないように思える
わたしたちの日々の最終地点には愛がいて
初めには愛がなければ生まれない
知ってしまったら二度と戻れない
失う恐怖に怯えなければならない
飽和した愛では満足出来ない
愛は人を獣に堕とす
それでも人がそれを求めてしまうのは
初めからただの獣でしかなかったからか
咲いて枯れて巡って生まれるそれは本能
愛情
私が君のために英明であろうとした時間は君の人生を占領するには少なすぎて、自分の愛だとか君への侵略だとか、結局のところ、私は愚かでしかなかったのだ。
美しさは人を救うだろうか?
写真の中にいる彼女は私が覚えているよりも幾分か若く、そして引き攣った笑みを浮かべていた。隣にはおそらく祖父だと思われる若い男が同じように口の端を力ませて立っているものだから、なんだか可笑しくて鼻で笑う。きっとこれは彼女の成人式だろう。他の写真は家族全員で撮ったものもあった。あの女にもまさかこんなにも純粋な時期があっただなんて笑えてしょうがなかった。そうだ。彼女も、私も、果てはその他でさえ実際ただの人間でしかなかったのだ。何を恐れていたんだろう。あの時の私にもし会えるなら、この写真を見せてやりたかった。一皮剥けばおなじ肉塊だと。
彼女が私のものでは無い時、私も私のものではなかった。たとえ偽りでもよかった。私はただ一言、嘘でも愛してると彼女に言って欲しかった。でも彼女はある時私に告げた。「君のそばにいると楽だ」と。楽なだけだ。彼女は私を愛してはいない。同じ方向を向いていないことがこんなにも辛いとは思わなかった。この写真の一枚にでも共に写れたらどんなに嬉しいことか。
美しさは羨まれはすれども決して味方にはなってくれない。
いつか翳る光なら手が届くのだろうか。
永遠のあなたを夢の中でさえ焼き付けていたい。
燃え上がるように愛させてなどくれなかったから、あなたへの感情が私の体躯へ染み込んでしまった。
微熱に侵されている。
愛に。
虹蔵不見ともひとつだけ確かな色を捉る
微熱
曇った緑色の光が部屋中を照らしている。夏だからか小バエが飛んでいて、閉め切った部屋の中でどうにも蒸し暑い。まるで生きたまま火葬されてるみたい、なんて不謹慎なことを思いつつ鈍く光る器具を机に並べていく。少し錆び付いていて、慌てて刃を交換するために新しい器具たちを消毒する時間を要した。まだ、午前2時だった。
金髪の映える真珠の様な肌の女。瞳の色は見えない。ゆっくりと上下する胸だけが彼女が人形ではない証拠だった。
青ざめた薄い肌の上を小さな刃で軽く撫でると遅れてプツリと血が滲む。ミルフィーユのように重なる玉の肌、薄らとこびり付く黄色い脂肪、引き締まった腹筋。傷の両側を鑷子で挟んでゆっくり開く。すると存外美しい内側が見えた。赤黒く、てらてらと光の反射する繊細な蜘蛛の巣のような、または古びた上等なレースのような膜の下、生々しい香りを放つ腸や丸い臓器達がいる。慎重に膜を切ると獣臭い匂いが部屋中に充満した。こんなに美しい女でも、やはり切り開いてみれば案外動物だと実感できる。サイズのピッタリな手袋をつけた手を腸の隙間に差し入れる。ぐちゅりと音がして、生暖かい液体の感覚をゴム手袋越しに感じて顔を顰めた。何度やったって気持ちの悪い感触だ。生を感じた。太陽の下に手を翳さなくったって誰かの体温を感じた。
じわじわと冷房が効いて来たのか、気がついたら少し肌寒くなってきた。手に触れる粘液だけが温かだ。体の中をほじくり返して目的の臓器を掴む。ゆっくりと引き抜いて、鉗子で掴むとそのまま体の上に置いた。内側に仕舞われているものが肌の上に置かれている倒錯的な光景に脳がクラクラしそうだ。乾かないうちに急いで血管なんかを糸で結んだ。未だ興奮の最中震える手で。足元のペダルを踏んだ。焦げた匂い。パチパチと弾ける音。煙。死んでゆく細胞。分離した。
こんなにも簡単に切り離されてしまった。
切り離されたこれははたして彼女だろうか?
開けられている内側に液体を垂らす。初めから逆再生する様に一枚一枚丁寧に膜を戻して、結んでいく。閉じればまた人形と見紛うような美しさ。
蛾と蝶は何が違う?何も違わないだろう。なら人形と彼女も何が違うだろう。このまま喉の奥に差した管を止めてしまえば人形になるだろうか。なんて、馬鹿らしい。突然鳴り響くアラームに驚いてモニターを見れば少しだけ体温が下がったのか、台形が乱れていた。
生きている。彼女はたしかに生きていた。なぜだか涙が出そうだった。グロテスクな中身を持ちながら、美しい皮を被って生きている。それがすこし恐ろしい。
ねえ君は枯れた花をそういうものとして愛せるのに、完璧でいたいんだね。変わり続ける中身と裏腹に変わり映えのない彼女をわたしは愛し続けられるだろうか。それは同じ彼女と言えるだろうか。焼ける骨の匂い。鼻の粘膜にこびり付く甘い匂い。それは彼女の好む香水によく似ているような気がした。太陽の下で咲くあなたは以前と同じ笑顔を浮かべるのだろう。
蝶よ、花よ、あなたよ。
外側は何にも変わらないのに、じつは失った中身に記憶が宿っていて、少しずつ忘れていく何かや変わっていく何か。という妄想に囚われて恐怖しています。愛してるはずだったのに、ほんとうにそれが以前と同じなのかわからない。絶対そうだという確証もない。太陽に翳せば透けて見えるでしょうか。生きているという神秘。
太陽の下で