言葉になる前のすべて
ほんとうにうつくしかったものたち
言葉にできないならそれがすべて
言葉にできない
幸せになろうと思うまで、惰性で生きないで。
あなた自身を見つめて。
触れてみたのは偶然で、ただ風に揺れる髪が綺麗だと思った。舞い落ちる桜の花びらをふと掴もうとしたみたいだった。あなただった。思い返すといつもあなたの横顔ばかり見ていて、それになぜだか罪悪感さえ覚えていた。私の目に映ると、あなたが汚れてしまう気がした。その正解の瞳で、声で、ただ私の名前を呼んで。私の輪郭をなぞってこの世界から弾き飛ばして。
あなたの横顔ばかり見つめていた。あなたと目を合わせたことがなかった。あなたのことを知ったつもりで何も知らなかった。当たり前にあなたを独占できると思っていた。あなたのことは何にも知らない。あなたを知らない。正解になれない。あなたは私を見ないし、私もあなたを見ない。
幸せになろうとしてなかった。あなたの本当の顔も知らなかった。あなたの影ばかり見て、それが私だと気づかなかったから。あなたは私の横顔を見つめていた。
幸せに
曇り空から雪が落ちてきて、体を濡らした。
雪で傘なんて差したことないけど、
みんなそうするから真似して傘を差してみた。
どんどん積まれる雪が重くて、なんだか、
心まで重くなってどこにも吐き出せないみたい。
冷たさを凌いだのに寒さが酷くなるようだった。
交差点ですれ違う人が傘を閉じたから
また真似して傘を閉じてみた。
雪が降ってた。
白い雪が降る中を凍える人たちが肩を上げて歩いている。
私も凍えて肩を上げている。
私たち同じ世界に生きていた。
突然雪と一緒に納得感が降ってきて、
私はやっとこの世界で呼吸を始められたような気がした。
誰もがみんなここを生きていた。
雪を踏み潰した下から覗くコンクリートの黒
今だけは生きた証がこんなにも確か。
誰もがみんな
夜は息をひそめ、冷たさだけが確かなものとして世界を縫いとめていた。頭上には、沈黙とともに果てしなく広がる夜空があった。星々は凍てついた大地の上に投げられた針のように細く震え、そのかすかな光だけが、闇が完全ではないことを証していた。
「それで君には、この手が見えているのか?」
男は、夜の影から抜け出したばかりの亡霊のような面差しをしていた。血の気のない顔に反して、声だけがひどく深く、焦げた薪の匂いを思わせる温度を含んでいた。少女はその声を聞くたび、胸のどこかが静かに軋むように思えた。
「見えてるわ」少女は言った。しかし、その言葉は夜気に触れた途端に薄れていくようだった。
男は短く息を吸い、少女が空ばかり見つめ、自分を見ようとしないことに気づくと、「そうは思えない」と疲れたように呟いた。その声音には、誰かを責める力すら残っていなかった。
風が一度、重い布を押し広げるように二人の間を通り過ぎた。静寂は重く積もり、星々のかすかな震えや、二人の鼓動のゆっくりとした反響さえ、永遠の始まりのように感じられた。
「見えている分だけで十分よ」少女は静かに言った。「それに天国は、それほど遠くはないの」
男は眉をひそめる。
「ええ。空を照らしているのは星でも月でもないの。夜そのものが空を覆い、暗く輝くからこそ、あんなにも眩いのよ。あれは、天国へ通じる窓。」
男はしばらく黙ったのち、言葉を探すように「美しい」とだけ呟いた。しかしその声は、言葉の美しさと裏腹に、どこか深い疲労を抱えていた。
少女はわずかに笑った。男は笑わない。彼は空から目をそらし、少女の手を両手で包むように握りしめた。その姿は、冷たい世界に取り残された誰かが、細い炎を守ろうとしているようだった。
彼の全身は光を拒む黒に覆われ、その黒は、世の苦悩が幾層にも沈殿した色のように重かった。だが瞳だけは別だった。深い夜の底からすくい上げられた水のように澄み、こちら側と向こう側の境界を曖昧にする奇妙な輝きがそこにはあった。まるでその奥に、ひっそりと、傷ついた宇宙が息を潜めているかのようだった。
「本当に、見えているのか?」
男の声は、もはや祈りにも似ていた。
「ええ。ずっと」少女は答えた。
夜空の向こうを見たのか男は問うた。
その答えを少女が持っていると信じていた。
少女はゆっくりと男の瞳を見つめ返す。その視線には、悲しみとも慈しみともつかない、静かな隔たりが宿っていた。
「……嘘よ」
天国の場所など知らない。
夜空の向こうに何があるのかも知らない。
星がどれほど美しいかも、夜というものがどれほど人を包むのかも、わからなかった。
ただ、男の瞳の奥に、少女は自分の知らない夜空を見た。
もし頭上の美しい夜空を越えて辿り着く場所があるのだとしたら、きっとそれはあの瞳の奥に隠された、名もなき宇宙なのだろう。
夜空を超えて
「みっともない」
と囁く唇から漏れる息が、啜り泣く寸前のものに似ていた。
辛くなってしまうのならそんなこと言わなければ良いのにと思ったけれど、私には到底計り知れない心の底を少しでも理解したくて、ただ両腕をその背に回した。彼女は鼻先を私の髪に埋めてしばらくそうやって呼吸を繰り返した。顔が見えないまま耳元で聞いたその音は、生まれてから取り込んだ音のうち最も切ない色をしていた。
明けない夜を探していた。
形のない悲しみばかり積み上げて試していた。
暗がりで触れ合う指先の温度が足を動かす。
あなたの風に荒らされる髪にイノセンスを見ていた。
それだけだった。
私の心の中であなたが見えなくなっても、時々瞳の中に姿を見てしまう。似た温度や肌、匂いなんかを探してしまう。「大丈夫」と繰り返しても地平線はどうやってもその腕の中だった。
あなたも誰かの瞳に私たちを見たら変わるのかもしれないけれど、きっと物語の一部にはしてくれない。
私が生きてない時間。
切なさを形にした呼吸がずっと離してくれないから凍えてどこにも行けなくなってしまった。
雪原の先なんてない、どこにも行けない、けれどその先へ進むあなたがどうしようもなくみっともなくて、私もみっともなくあなたばかりずっと。
ずっとそうだ。
美しいと謳った唇でみっともないなんて呪いを吐くから。
あなたの、白い腕の中だけが私の全てだった。
Ses bras blancs devinrent tout mon horizon.
雪原の先へ