秋風は何色
秋の風が色のないのはなぜ
秋風の吹く関係にいま、色はあるのだろうか
時代と共に移りゆくことばの美しさ
意味を知らずとも受け取れる心の映し鏡
言葉の色は何色
語り手次第、受取り手次第、七色の世界。
秋風は男女の関係の変化などに使われてきたそうです。それを知らなければただの秋に吹く風。今の時代は男女にもグラデーションがあるように、言葉にもグラデーションがある。移り変わってゆく言葉の意味と共に世界が彩られて行くのを見届けていたいです。文章に乗るその人だけの色が好き。
秋風
結局、何者かになるには誰かの軌跡を辿るべきなのである。
天才は早逝すると云う。
何者かに為ってみたいと思う。しかし憧れこそすれ自分で終わりにする度胸など無いからこうも醜く生き延びている。
贋作ばかり作って何の価値があるだろう。最早思考すら模倣しただけの人間の成り損ないではなかろうか。
見渡せば満足そうな顔ばかり目について、私だけが不幸に取り憑かれたような心地だ。真っ暗の、どん底。
貰うばかりで何一つ返せた事もない。
日々の幸福に一喜一憂して振り返れば取りこぼした幸せを小さな生き物たちが嬉しそうに啜っている。大切に大切に幸福を食べても溢れた事に気付かず不幸だと思い込んでしまう。
人間になんてなるべきでは無かった。人間ではなかった。
愛を語るには人に譲るだけの愛の無い成りかけのもどきだ。
疾しい心に恥入りつつ命を浪費して生き永らえている。
誰かに罪を委ねたいのは酷く愚かしい事だろうか。
わたしは、人になりたかったのだ。
また会いましょうと言えるだけの余裕すら無ければ、
あなたに合わせる顔も無く。
もらった分だけ愛と感謝を伝えたいのですが、人間もどきが人の言葉を話していて本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです。生き恥の人生です。今日も生かされています。何かを生み出したくても所詮人の二番煎じなのでは無いかと落ち込みながら毎日これを書いています。少しでも生きた証を残したくて。わたしは何者かになれているでしょうか。誰かの心に少しでも残っているでしょうか。忘れられてしまわないでしょうか。今すぐにでも会いに行きたいのに、何か一つでも成し遂げられずには恥ずかしくて合わせる顔がないのです。どうか忘れないでください。
また会いましょう
飛ばない鳥がなぜ飛ばないのかなんて
飛ぶ必要が無かったからに決まっている
空の広さも風に乗る心地よさも知らなくとも
ただ生きる楽しさを知っている鳥
憧れこそすれど全ては既に手中にあるものだと
飛べないのではなく飛ばないのだと知っている鳥
飛んでも歩いてもいつか知る遠くの水の味
飛べない翼は頑張った証
息苦しく羽搏くより永く走ってみたいのだろうか
飛べない翼
ふわふわと風にゆれる穂が秋を告げていた。
良い思い出はいつもススキと共にあったように思う。
田舎暮らしは存外良いものだ。
テレビに映る高いビルやたくさんの店なんかはないけれど、文字通り自然だけが取り巻いている環境も悪くはない。あるがままの全てを受け入れるというのもまた人間の一つの当たり前の姿なのだ。そんな田舎暮らしも、のんびりと時間がすぎているわけではなく、案外常に忙しい。
特に、秋は。食欲の秋と言われるように、それらを作るものたちは一年で一番忙しい時期なのだ。
わたしはそんな忙しい秋が好きだ。農家は汚くて古臭くて良い印象を持たれないが、きっとあなたも農家に生まれていたら汚いからと簡単に捨て去るのは難しいだろう。生まれ育った場所を売り払うのは勇気がいる。捨てる勇気がなかったから、わたしは今もひとりで続けている。少しずつ、少しずつ思い出の場所を削りながら。
失ってゆくのが怖いだけだ。
冬は枝を切る。大きな鋏も今は手に馴染む。
春は田に水を引き、種を植える。横を見れば隣で一年越しの日焼けをした祖父が笑っている。
夏は野菜を収穫し、強い日差しの中林檎に袋をかけたり、庭の見事な花たちの世話をする。雑草抜きはキリがないけれど、祖母と話していれば一瞬だった。
秋は米や林檎の収穫だ。最近そんなに高くは売れないけれど、愛を込めた果実が誰かの笑顔になれば良い。
秋は、忙しくて悲しみさえ吹き飛ばす。
冬まで一瞬だ。
脱穀や林檎の選定に疲れて、汚れた服のまま外に出る。
秋は月がよく見えて、ススキが冷たい風に揺れる。
耳を澄ますと虫や鳥や木々の囁く音が聞こえる。
大きく息を吸えば爽やかな林檎と木箱の香り、米から落ちたもみ殻の癖になる匂いが胸いっぱいに広がる。
月が綺麗で、ススキが揺れて、匂いがして。
そうすれば記憶の中の祖父母は頑張ってるなと笑う。
秋がすきだ。
愛されなかったわたしを愛してくれた人が好きだから。
世界でいちばんの幸せをくれた。
もの言わない植物たちに、思い出が水となって実りを与えてゆく。そしてそれらに触れたとき、また私の中に思い出が巡るのだ。
ほんとうは、こんな風にずっと過去に縋っていてはいけないんだろうけど、何もかも捨てられないでいる。もう農業をやるには厳しい世の中だ。知り合いの年老いた農家は皆、木を切って畑を焼いて売り払ってしまった。一回り上の世代でさえ継ぐ人間はいなくなってしまっている。それでも手放したく無いと思う。だって秋がこんなにも美しい。
忙しくて目が回っている間は辛くなんてないんじゃないかと思っていられる。何にも返せなかった、何にも持っていないわたしが作った物が誰かの喜びになれば救われるような気がする。ただの死までの時間稼ぎのような毎日だ。
月が綺麗で、ススキが揺れて、匂いがして。
私の秋は今年も、密やかに愛を告げている。
手を振っているのか、会いに来たのか枯れ尾花
愛しい人たちが作り上げた美しいものたちが失われていくのを必死に繋ぎ止めて生きています。他の人から見ればぐちゃぐちゃで統一性のない庭園も、虫や獣や泥ばかりの畑たちも、古臭い機械や家も。ぜんぶ私にとっては輝く宝物なのです。今は兼業してどうにか回していますが、きっと私ひとりきりでは歳をとって、いつかは駄目になってしまうでしょう。それまでには思い出を切り捨てる決心がついていれば良いなと思います。規模の大きな遺品整理をし続けているのです。秋くらいは人手が欲しいのでススキになって手伝いに来てくれないかな。会いたいな。
骨は語らない。石や木に書かれた文字は癒してはくれない。けれど、枝の切った跡や植えた植物たちは色濃く彼らの生きた証を示し続けてくれる。ここで生きていた事を。
ススキ
照明を落とさずにベッドの上でうつらうつらと頭を傾げていると、ふと夢と現実の狭間のような場所に陥るような感覚をおぼえるときがある。
まさか本当に寝入ったわけではないが、少なくとも起きてはいないものだから、非現実的な空想ばかりが視界の隅で蠢いているばかりで一向にすっきりしない。疲労からそんなふうに見えているのか正気でないのかわからないが、そういうときは大抵、見たことのない人間が目の前に立っている。わたしは何故だかそれを受け入れて、手を広げることはせずとも静かにその人間が近づいてくるのを眺めて待つのだ。
あたまがおかしくなってしまったのだろうか?
徐々に縮まる距離と比例して、わたしの瞼はより重くなる。
目の前に来る頃にはそれは完全な空想になっていて、現実から切り離された場所にいる。体はまったく言うことを聞かず、しかし不快というわけではなく、まさに寝入る直前の身体中の暖かさばかりが包み込んでいるが、心はすっと冷え込んでいるのだ。正面のそれを抱きしめてみれば少しくらいは内側の淋しさは埋まるだろうか。
そういえば脳は完全に正しいわけではなく、勝手に補完して正しいと思い込んでいるだけだというが、この夢と現実の狭間も完全に妄想ではないのかもしれない。
ならば眠りに落ちる直前にだけ会う彼らも、私と同じように夢と現実を彷徨う淋しいひとなのだろう。
脳裏をゆらめく曖昧を抱けばうつろすら温か。
眠りに落ちる直前に見る、ぐにゃぐにゃとした景色はどこまでが現実なのでしょう。手足が暖かくて、感覚が鈍くて、頭がぼうっとしてきた時だけに見るそれらが大好きです。頭の中と外側がつながっているような気分になれるので。
脳裏