昼日中に犬と散歩する。
上機嫌に駆ける真っ黒なパグの名前は『ミッドナイト』だ。
「……ミッちゃん、そろそろ帰らない?」
試しに声を投げてみたが、黒パグは力強くリードを引っ張り続けた。元気なのは良いことだ。
『犬を散歩に連れていく』という言葉は、つくづく間違いだと感じる。正しくは人間が犬に散歩へ連れ出されているのだ。
犬がいなければ俺は散歩になど出ない。散歩の主体はどう考えても犬のほうだ。
おもむろにミッドナイトの速度がおち、道脇の雑草のにおいを嗅ぎだした。それに合わせて俺も足を止める。
用を足すのかと思い、袋と水入りペットボトルを用意するが、ただ草の間をうろうろしながら俺のことを見上げるだけだった。
「なに。どうしたのミッちゃん」
その場にしゃがんで首の後ろを撫でると、ミッドナイトはころんと腹を出して俺の手にじゃれた。わりと人通りの多い道だ、ちょっと止めてほしい。
『真夜中』の名がついた黒い短毛がしょりしょりと俺の手をくすぐった。
この名前をつけたのは元カノだ。
夜のような黒をたいそう気に入ったらしく、友人の犬が産んだ仔を俺になんの断りもなく同棲していたマンションに連れてきた。
そして先々月、「他に好きな人ができた」とだけ伝えて出ていった。
最初はミッドナイトも連れていくと言っていたが、俺が「いや」と言ったら「そう」と答えて身一つで去って行ったのだ。
ミッドナイトは彼女より俺とのほうが仲が良かった。俺も彼女よりミッドナイトと仲が良かった。
こういうところで愛想を尽かされたのかもしれない。
「……いや、もっといろいろあったんだろうな」
路上で寝転がるミッドナイトを撫で回しながらそう呟いてみた。犬との散歩はいい、どんなに勝手な独り言を言っても、なんとはなしに消化できる。
俺は立ち上がって、催促するようにリードを引っ張った。
「ほらミッちゃん、そろそろ行こう。あと帰ったらお風呂だからね、道に体こすりつけちゃって」
ミッドナイトはまた機嫌良さげに駆け足を再開した。
小さな歩幅だ。俺の何分の一しかないのに、シャカシャカと動いて俺よりずっと速い。
足下を駆ける黒い毛を見ても、真夜中の色だとは思わない。ブラッシングされて光沢のある黒は、ご飯にのせる海苔によっぽど似ている。
俺が名付け親だったらこの名前は決して付けなかったと、いつも思う。
元カノは朝が嫌いで、夜更けが好きだった。いっぽう俺は夜に起きていられなくて、朝型だった。
そしてミッドナイトも俺と同じだ。
彼女がミッドナイトを連れて出ていくと言った時、俺が「いや」と拒否したあの時。
彼女はとてもホッとした顔をしていた。そんな顔で「そう」と、短く応えるのだから、俺はその声と顔をずっと忘れられないでいた。
ミッドナイトを置いていきたかった訳では無いと思う。それくらいの機微は、俺にだってわかる。
もっと、そんなふうに話が出来ていたら、きっと違ったのだろう。その結果が今より良い未来だったかは分からないけれど。
考えを堂々巡らしていると、ミッドナイトが15時の方向に走り出して不意に腕を引っ張られる。そっちには仲良しなチワ公の住むお宅があるが、今日そこを通る予定はない。やめろパグ公。
リードを引っ張り直すと、ミッドナイトはこちらをちらりと見上げてから真っ直ぐに走り出した。
思考の中に潜っても、すぐに路上に引きずり戻される。
俺の真夜中はもうあの子じゃない。足下を走るミッドナイトだけだ。
いつだって散歩の主体は犬なのだ。
昼の陽を浴びるミッドナイトの毛並みに目を細めて、俺はリードをもう一重、自分の手首に巻きつけた。
𑁍・「真夜中」・𑁍
会うたびに「いつか絵で食っていく」と言った友人が、絵では食えぬまま死んだ。
名前も治療法も難しい病だった。
大学時代の同級生で友人だった私たちは、今年四十になったばかりだ。
彼の奥さんとご両親が、生前の彼の作品を飾ったささやかな個展を開いたので、招待された私は都内の小さなアートギャラリーへと赴いた。
個展には葬儀でも見かけた顔が来場していて、こじんまりとした画廊はそこそこ満員といった様子だ。
私はお焼香をあげるような足取りで人の間をぬっていった。
友人の作品は、すべて水墨画だ。
テーマは様々で、花や景色を描いたものもあれば、流行したアニメのキャラが短いスカートをヒラつかせているものもあった。
どの作品も初めて見た気はしない。実際、友人はよく作品をSNSに投稿していたので、彼をフォローしていた私にとって目に新しいものではなかった。
『シスター服で散弾銃を構えた美少女』の絵の前で解説文を読んでいると、主催者である奥さんが挨拶にやってきた。
「本日も遠くから足を運んでいただきまして……」
「いえいえ、こちらこそご招待いただいて」
彼の生前に奥さんと会ったのは二、三回ほどだったが、病室や葬儀でも言葉を交わしたせいか古い知人に会ったような心地だった。
奥さんは私の前の絵を見て、やわらかく笑った。
「この絵の子、気になります?」
「いやぁ、誰だったっけなーと思って」
「ね、誰なんでしょうね。私もよく分からなくて、解説文も適当なんです」
「流行ってたアニメ映画のキャラかもですね。あいつ多趣味だったから……」
「ほんとに、色んなところで色んなコトをしてた人でしたよ。よくSNSで絵の投稿もしてたんでしょ? 私には教えてくれなかったんですよ、アカウント」
「まあ、ほとんど仲間内との繋がりでしたからね。あと、奥さんに堂々と見せるにはちょっとスカートの丈が短かったのかも」
奥さんは吐息だけで笑って、「個展に出しちゃって悪かったかな」と絵を見やった。
「……私が言うことじゃないんですけど、あの人の絵を見てくださってありがとうございます。今も、生きてた時も」
「いやいや。見せてもらってるだけで、別になんにもしてないですよ」
「それが生き甲斐だったと思いますよ。私なんて『へー、よく描くねー』って流すことも多くて……ちゃんと感想言ってあげれば良かったな」
私もマメに感想を言っていたわけではない。そもそも彼の絵のタッチは私の好みとは違うものだった。
それでも『生き甲斐』など思い当たらない私にとって、彼の創作意欲はずっと眩しく、羨ましく、どこかとても遠かった。それを「悔しい」と思う熱量すら、私にはなかった。
そんなちっぽけな私だからこそ、彼の絵が果てしなく素晴らしいものに感じたのかも--なんて思うのは、あまりに失礼すぎるか。
「……生き甲斐って言ったら、それこそ奥さんそのものだったと思いますよ。入口近くにあった奥さんの絵、いちばん好きでした。『好きだから、どうしても描きたくなった』ってのがよく伝わりました」
奥さんは否定こそしなかったが、照れて気まずそうに口をもごもごと動かした。挙動が素朴で、好感が持てる人だ。いつも妙に気取っていた友人とは正反対な夫婦だったようだ。
「あはは……、まあでも、好きじゃなかったら絵に描かないのかな。このシスター服の女の子とかもね?」
「いや、あいつは絵を描くこと自体が好きだっただけで、対象物にあんまり思い入れが無いことも多かったですよ。……そうだ、若い頃に『この絵の街並み、なんの魅力も感じずにただ描いたって感じする』ってあいつに言ったら一週間怒ってたっけ」
堪らず吹き出した奥さんに来場者たちの目が向く。周りに軽く会釈しながら、奥さんの視線が私に戻る。
「あの人の友だちって感じ、するなぁ……」
「えっ、そうですか?」
「考え方が似てますよ。なんとなく」
「それは嬉しいかも。正直、あいつとはぜんぜん違う生き方してるなーって思ってたから……」
「『嬉しい』ってちゃんと言ってくれるところも、あぁーあの人と仲良くしてくれてた人だなーって思います」
ギャラリーのスタッフらしい人から奥さんに声がかかる。奥さんは私にもう一度お礼を言ってこの場から離れた。すると思い出したかのように、こちらを振り返って悪戯っぽく笑った。
「ぜひ奥まで見ていってくださいね、絶対。あとで感想も聞きたいので」
そんな奥さんの言葉の意図を探りながら、私は広くないギャラリーの奥--パネルで仕切られて奥ばっていた場所にまで足を踏み入れた。
そこにも絵が飾られていて、こちらは私が見た事ない絵も多くあった。解説文を読むと、晩年に病室や一時帰宅の際に描いたものらしい。
病にたおれても、あいつは絵を描いていたのだ。
生きることそのものと言って差し支えないものを早々に見つけていた友人を、まだ生きているはずの自分とどうしても比べてしまい、やはり遠い存在に感じずにはいられなかった。
それに、こんなふうに時系列を追って作品を見ているとまるで著名な画家の展覧会にでも来たかのようだ。
最奥には、額入りの絵がわざわざイーゼルに置かれていた。他より低い位置にあるその絵を覗き込むと、それは私の絵だった。
彼の文字で書かれたタイトルには『学生時代』とあった。思わずその絵の前で座り込んだ。頬に手をついて、その絵を見つめる。
絵の中の私は、見知った大学のベンチに座り、困ったように--あるいは小馬鹿にしたような笑顔でこちらを見ていた。
あいつから見た私はこんなに気取った表情をしていたのか? それに、なにも肌の荒れまで描きこまなくてもいいのに……。
いろんなことに思い巡らせながら、私は『学生時代』にぽつりと呟いた。
「……感謝しろよー。あのシスター服の散弾銃、お前がハマってたエロゲーのキャラだって奥さんには内緒にしといてやったぞー……」
ついでに、礼はいらないぞー、と心でつけ加えた。
お前みたいな生き甲斐なんてなければ、意味もなくただ過ごしてきた人生だと思ってきたが、友人の『学生時代』そのものになれていたのなら、なんだかもう上々だと。
そう思えたから、一応はそれで十分だ。
絵の中の私が満足そうに笑うので、私もなんだかおかしくなって、声を抑えてくすくすと笑った。
目尻にたまった涙をすくっては、『学生時代』と笑いあう時間がしばらく続いた。
𑁍・「生きる意味」・𑁍
「『悪』って漢字の、旧字体があるじゃんか」
姉がふいにそう言った。
四月も終わるのに少し肌寒い夜。姉は羽織った大ぶりのショールにくるまって、首だけをこちらに向けていた。
私はそれを『催事場で売ってるモンブランみたいだ』と思いながら、その話を続けてみろという意図の視線を送った。
「旧字体の『悪』って、十字架のサンドイッチみたいなのが『心』の上に乗ってんの。知ってる?」
手元のスマホで調べてみると、『惡』という漢字が出てきた。
「心の上に、十字架のサンドイッチ……」
「見えん?」
「まあ、そうね。分かるよ」
苦笑いしながら同意すると、姉は得意げに口の端をあげた。
「旧字体だとさ、あんまり『悪い』って感じがしなくない? 心の上に十字架だよ」
「でもサンドイッチの具になってるんだから、まぁ不敬な感じがして悪なんじゃない?」
「『不敬』ってのはね、失礼だけど悪じゃあないのよ、若い子にはまだ分からないと思うけど」
年子のくせに、姉はニヤニヤと笑った。
姉はいつも奇妙な話題をふっかけては自分以外の総てを小馬鹿にするような喋り方をする。不思議と腹は立たなかったが、よそで誰かを怒らせやしないか時たま心配になった。
「善悪なんて言葉をひとは簡単に使うけど、突き詰めてみればその中身に違いなんてないのかもしれないね」
話の〆だと言わんばかりに姉は羽織ったショールをはためかせた。
私は、ふと気になったことを口にした。
「『善』のほうにも旧字体ってあるのかな」
私の疑問に姉は良い回答を持っていなかったらしく、「うー」と唇を尖らせて考えるふりをしてみせた。
私はまたスマホで検索をかける。そうして出てきた検索結果を姉に見せた。
「『譱』……字、いかついね」
「すごいよね、『言』が二つも入ってるの。絶対うるさいよ、この漢字」
画面の光に照らされながら、姉はうんうんと納得したように目をつむった。
「二つの『言』が『羊』を被ってるわけね……深いじゃない」
「そう?」
「羊の皮を被っただけの言葉こそ善で、心の上に窮屈に掲げられる十字架が悪。示唆的じゃない」
「うん……うん? うーん……?」
筋が通っていそうでメチャクチャなことを味わい深そうに語る姉。
そういえば、いま羽織っているショールは去年、姉が「ラムウール100%の良いやつ買ってみた」と嬉しそうにしていたのを思い出す。
言葉やかましい姉が子羊の毛を被っている様子は、形だけ見ればフードコートで売っているクレープにも似ていて、あの生クリームとカスタードクリームの合わさった甘味は確かに『善』かもしれないと私はぼんやり思った。
𑁍・「善悪」・𑁍
流れ星は、星ではない。
宇宙の塵--彗星からこぼれた砂利が地球に墜ちる摩擦熱で燃え尽きる現象を指すそうだ。
どこかの賢い人に聞いてみれば「それも星の一種であり」と返ってきそうだが、私のような浅学な一般市民にとって『星』は「砂利」や「塵」と名付けられるようなものではない、のだと思う。
人はきっと、砂利に願いを、塵に祈りを捧げたりはしないのだろう。
たとえ砂利が青白く輝いても、塵が夜空に浮かんでいてもだ。
事実として流れ星と砂利・塵が同義であっても、人の祈りは『星』にしか向けられない。
祈りや願い--信仰の正体は、いつだって言葉なのだ。
︎︎𑁍・『流れ星に願いを』︎︎・𑁍