「『悪』って漢字の、旧字体があるじゃんか」
姉がふいにそう言った。
四月も終わるのに少し肌寒い夜。姉は羽織った大ぶりのショールにくるまって、首だけをこちらに向けていた。
私はそれを『催事場で売ってるモンブランみたいだ』と思いながら、その話を続けてみろという意図の視線を送った。
「旧字体の『悪』って、十字架のサンドイッチみたいなのが『心』の上に乗ってんの。知ってる?」
手元のスマホで調べてみると、『惡』という漢字が出てきた。
「心の上に、十字架のサンドイッチ……」
「見えん?」
「まあ、そうね。分かるよ」
苦笑いしながら同意すると、姉は得意げに口の端をあげた。
「旧字体だとさ、あんまり『悪い』って感じがしなくない? 心の上に十字架だよ」
「でもサンドイッチの具になってるんだから、まぁ不敬な感じがして悪なんじゃない?」
「『不敬』ってのはね、失礼だけど悪じゃあないのよ、若い子にはまだ分からないと思うけど」
年子のくせに、姉はニヤニヤと笑った。
姉はいつも奇妙な話題をふっかけては自分以外の総てを小馬鹿にするような喋り方をする。不思議と腹は立たなかったが、よそで誰かを怒らせやしないか時たま心配になった。
「善悪なんて言葉をひとは簡単に使うけど、突き詰めてみればその中身に違いなんてないのかもしれないね」
話の〆だと言わんばかりに姉は羽織ったショールをはためかせた。
私は、ふと気になったことを口にした。
「『善』のほうにも旧字体ってあるのかな」
私の疑問に姉は良い回答を持っていなかったらしく、「うー」と唇を尖らせて考えるふりをしてみせた。
私はまたスマホで検索をかける。そうして出てきた検索結果を姉に見せた。
「『譱』……字、いかついね」
「すごいよね、『言』が二つも入ってるの。絶対うるさいよ、この漢字」
画面の光に照らされながら、姉はうんうんと納得したように目をつむった。
「二つの『言』が『羊』を被ってるわけね……深いじゃない」
「そう?」
「羊の皮を被っただけの言葉こそ善で、心の上に窮屈に掲げられる十字架が悪。示唆的じゃない」
「うん……うん? うーん……?」
筋が通っていそうでメチャクチャなことを味わい深そうに語る姉。
そういえば、いま羽織っているショールは去年、姉が「ラムウール100%の良いやつ買ってみた」と嬉しそうにしていたのを思い出す。
言葉やかましい姉が子羊の毛を被っている様子は、形だけ見ればフードコートで売っているクレープにも似ていて、あの生クリームとカスタードクリームの合わさった甘味は確かに『善』かもしれないと私はぼんやり思った。
𑁍・「善悪」・𑁍
4/26/2024, 2:37:20 PM