実は私は、泡を志望しているのであります。
と言うと、今朝から根気強く竿を垂らしている漁師然とした少年は、目をパチパチと瞬かせた。
「人魚姫のお話を知っていますか?」
「もちろん知っているさ」
「リトル・マーメイドの方ではありませんよ」
「アンデルセン童話の方ってことか。なら知らないな。確か終わりがちがうんだろう?」
ええ、ええ。
そうなのです。
みなさんご存知アリエルさん⋯⋯ではない『人魚姫』の方は、最後は泡になって、海に溶けていってしまうのです。
漁師然とした青年は、興味のなさそうな表情をして、プカプカと浮きを眺める。
「ここで問題です。デデンッ! なぜ人魚姫は泡になってしまったのか?」
「さあな。魔女の呪いじゃないのか?」
「ブッブー! ちがいます」
「なら、失恋したんだ。王子様に見初められなかった」
「多分ちがいます」
「は? 多分?」
「私、アンデルセン先生が書かれた『人魚姫』のお話を知らないのです」
そう言えば、漁師然とした中年は、憮然とした表情をこちらへ向けた。
「はあ、全く。お前は。知ったかぶりも程々にと教えたはずだろうに」
「申し訳ございません。つい」
ええ、ええ。
それでも私は、どうしても、貴方とお話をする口実がほしかったのでありました。
いつの間にか貴方は、私ではない別の女性を優先するようになりましたから。
漁師然とした老年の指には、銀色に輝くリングが付けられていた。
「どうしても、泡になりたいのです」
人魚姫さんがなぜ泡になってしまったのか、私は知りません。失恋なのかもしれせんし、もしかすると、もっと別の理由なのかも。
それでも私は、私の理由で、泡になりたいと、そう願うのです。
貴方を―――いえ、貴方を私の元から攫っていく女性を、呪ってしまいたくなどありませんから。
「だからどうか、早く」
私を泡にしてくださいな。
真実の愛。
といって一番に思いつくのはやはり、美女と野獣なのではないでしょうか。見た目が獰猛な獣であろうとも、美しい心根を携えている村娘には関係ないのです。獣の心優しき隠された姿を、見事に見通してしまうのです。
私は、小さな頃からこのお話が好きでした。とてもロマンチックで、女の子の憧れなのです。私も、真実の愛というものを手に入れたいと思っていました。ええ、過去形です。今はそんなふうには思えません。夢見る少女じゃいられない年頃になってしまったのです。
「おかあさん、いってきます」
今日も私は、お仕事に出掛けていきます。家業です。とはいっても、完璧に成功させた試しがありません。え? 完璧じゃなくていい? 貴方はお優しいひとですね。童話の中に登場する野獣のようです。私も、貴方のような優しいひとになりたかったです。こんなふうに、かわいい女の子を襲うようなオオカミにはなりたくなかった。
ただいま女の子を発見しました。赤い頭巾を被り、フルーツやらなんやらの詰まった籠を提げています。そんな彼女の後ろに、息を殺して近寄ります。このようなことを、もう数週間前からずっと繰り返しています。先ほども言いましたが、成功した試しがないからです。成功するまで、ターゲットは変えてはならないと言いつけられているので、私はこうして、毎日彼女を―――赤ずきんちゃんを狙っているのです。
赤ずきんちゃん。あ、はい。そうです。不肖この私が付けさせていただいたお名前です。あまりにもそのまま過ぎるので、お母さんからはちょっぴり不評です。
と、そんなことを考えていましたら、ふと気が緩んでしまったのか、カサッと草むらを揺らしてしまいました。
「そこにいるのはだれ?」
ば、ばれてしまいました。どうしましょう。まだ私は、ばれてしまったときの対処法を教わっていません。とりあえず、落ち着きましょう。落ち着くのです。ひっひっふー。よし。
「私は野蛮で危険なオオカミなのです。あなたを襲いに来ました! お覚悟です!」
「あら、とってもかわいいオオカミさんね」
「なんと。そうきましたか」
突然の出会いによって、私たちはその後、お友達になりました。そうです。私はどうやら、赤ずきんちゃんに隠していた姿を見破られてしまったようなのです。
え? それからですか? それは、貴方ももう知っていることですよ。それより、早くお休みになってください。どうして、お話する前よりも元気になっているのですか。ううむ、赤ずきんちゃんであれば、すぐに貴方を寝かせてしまえるのですが⋯⋯。
あ、赤ずきんちゃん、おかえりなさい。ええ、はい。まだ眠ってくれないのです。一緒に寝ますか? え? はい。ふふ、私も愛していますよ。
そういえば、かわいい女の子を襲うオオカミにはなりたくなかった、と言いましたが、正確性を期すのであれば、襲ったのはオオカミではなく、赤ずきんちゃんの方なのかもしれません。
真実の愛、ですから。
二人だけの秘密だよ。
そう言って、ザクザクザクと土を掘った。
ザクザク ザクザク ザクザク
ちょっと草臥れたので、一時休憩。
団子を食べて、お茶を飲んで、またザクザク。
埋める。埋める。埋める。
なぜ? と聞かれれば、隠したいから、と答える。
そんなものを、埋める。
土が全部被さって、誰の目からも隠れきったときになって、やっと鋤を放り投げることができる。
そうして、ぼくたちは、成し終えたのだった。
それからウン百年後。
薄い板――ならぬテレビには、「徳川埋蔵金、ついに発掘か!?」と目立つ色のした大きなテロップが映されている。
ぼくはとなりにいる家来――今世は友人――に向けて、テレビ画面を指さしながら笑いかけた。
(徳川さんと家来さん)
どうか、大好きなきみの願いが叶いますように。
雨音に包まれて。
包まれたくない。びょ濡れになるだけ。
雨音ではなく、優しさに包まれたいです。