うぐいす。

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 実は私は、泡を志望しているのであります。
 と言うと、今朝から根気強く竿を垂らしている漁師然とした少年は、目をパチパチと瞬かせた。

「人魚姫のお話を知っていますか?」
「もちろん知っているさ」
「リトル・マーメイドの方ではありませんよ」
「アンデルセン童話の方ってことか。なら知らないな。確か終わりがちがうんだろう?」

 ええ、ええ。
 そうなのです。
 みなさんご存知アリエルさん⋯⋯ではない『人魚姫』の方は、最後は泡になって、海に溶けていってしまうのです。
 漁師然とした青年は、興味のなさそうな表情をして、プカプカと浮きを眺める。

「ここで問題です。デデンッ! なぜ人魚姫は泡になってしまったのか?」
「さあな。魔女の呪いじゃないのか?」
「ブッブー! ちがいます」
「なら、失恋したんだ。王子様に見初められなかった」
「多分ちがいます」
「は? 多分?」
「私、アンデルセン先生が書かれた『人魚姫』のお話を知らないのです」

 そう言えば、漁師然とした中年は、憮然とした表情をこちらへ向けた。

「はあ、全く。お前は。知ったかぶりも程々にと教えたはずだろうに」
「申し訳ございません。つい」

 ええ、ええ。
 それでも私は、どうしても、貴方とお話をする口実がほしかったのでありました。
 いつの間にか貴方は、私ではない別の女性を優先するようになりましたから。
 漁師然とした老年の指には、銀色に輝くリングが付けられていた。

「どうしても、泡になりたいのです」

 人魚姫さんがなぜ泡になってしまったのか、私は知りません。失恋なのかもしれせんし、もしかすると、もっと別の理由なのかも。
 それでも私は、私の理由で、泡になりたいと、そう願うのです。
 貴方を―――いえ、貴方を私の元から攫っていく女性を、呪ってしまいたくなどありませんから。

「だからどうか、早く」

 私を泡にしてくださいな。

8/5/2025, 10:29:46 AM