「ここに光が落ちてきませんでしたか?」
「いいえ……?」
人が来るような時間でもないのにチャイムを鳴らされて慌てて出てみたら、突然わけの分からないことを言われて語尾が疑問形になってしまった。
モニター越しに映る男性は上下にスーツを着ていて、これまた家に来るタイプの人ではない。訪問販売のサラリーマン?そう訝しんでいると、
「ごめんなさい、よく分かりませんよね、失礼しました」
そう言って男性は一方的に背を向けて帰って行った。
一体どういうことか分からないけれど、私は急いでキッチンへ戻り、流し台の栓を開けた。
朝の皿洗いに洗濯物干し、掃除も終えると11時を過ぎていた。昼の支度をしないと。今日は確かうどんを買ってあったはず。
冷蔵庫を開けようとしたその時、何かやわらかいものが腕に当たった。
振り返ると、リビングに丸くてお餅のような、白い物体がふわふわと浮かんでいた。全体がほんのりと光っている。
もしかして、光ってこれのこと?
触れようとすると、光らしきものは素早く動いて手が空を切った。浮いているだけなのに、手に取ろうとすると避けられる。
きりがないので、気にせず私は昼ご飯を作ることにした。
昼ご飯を食べている最中も、家計簿をつけているときも、謎の光の玉はずっとリビングに浮いていた。家の蛍光灯がついていても、ぼうっと浮き上がるような不思議な光を放っているように見えた。
日も暮れてあたりが暗くなってくると、再びチャイムが鳴った。朝の男性だった。
「あの、あれ、」
「それですそれです!」
なんと呼ぶべきか分からずに「あれ」になってしまった。それでも男性はここに探している光があることを察してくれたようだ。
1人では手に取ることができずどうしようもなかったので、リビングへと入ってもらうことにした。
「これね、やわらかい光だから優しく扱わないとすぐ逃げちゃうんですよ」
来てもらったところで意味が分からずぽかんとしていると、男性は申し訳なさそうに頭を下げた。
「申し遅れました、わたくしこういう者でして」
丁寧に差し出された名刺には「光量管理局」と書かれている。光量管理局は地上のありとあらゆる光を管理しているらしい。男性は働いている最中に、この「やわらかい光」なるものを落としてしまったのだとか。
「この子は必要な人の元へ届く性質があるんですよ」
たとえばあなたのように、忙しい人のような。
光は見つけてから1日中、触れなければ同じ場所で佇んでいたけれど、それでもずっとそばにいるような気がした。部屋の中にいて、嫌な感じはしなかった。
「外へ出してあげてもいいですか?」
私は男性の意外な提案に戸惑った。落し物を拾いにきたと思ったから。
「捕まえなくていいんですか?」
「はい、今日はそういう日なので」
窓を開けると、風をうけて光はゆっくりと動き始めた。完全に外へ出ると、そのまま高く昇っていく。
この後もやるべきことは山積みなのに、気づいたら私はそれをずっと眺めていた。あっという間に高度を上げて、あたり一面を照らしていく。
あなた、満月の光だったのね。
都会の明かりは眩しく、月がなくても夜道で困ることはなくなっていた。月をこんなにゆっくり眺めることなんて、ずっとしていなかった。
「それではこれで、ご迷惑をおかけしました」
男性は深々とお辞儀をして帰って行った。
ドアが閉まるのを見送ってから、リビングの蛍光灯を全部消してみた。月の光だけが届いていて、ゆったりとした時間が流れる。
夕ご飯の支度をしないと家族に怒られるかも。そんな不安は全部、月のやわらかな光が消してくれた。今日は作り置きのものだけでごめんね、でもたまにはいいでしょ?
拷問官はいらついていた。
「嘘をつくな。そこにデータがないことは調査済みだ」
壁に縛り付けてから11時間と26分。
どんなに痛めつけようと脅迫じみたことをしようと、男は情報を吐こうとはしなかった。
時間が経過してから最初にした質問を繰り返すと、大抵の人間は本当のことを言うものだ。しかし男から受け取った答えも全く同じだった。
拷問はされる側だけでなく、する側にも忍耐力が必要だ。だからこそ、拷問官はあえて定期的に腕時計を見るようにしていた。長引くことには慣れている。
拷問官のいらつきの原因は、男の態度であった。
まともな人間なら、これだけ長時間何も食べずに身動きも取れない状態でいれば、うなだれて力が入らなくなる頃だ。
だが男は違った。臆することなく、顔をずっと拷問官のほうへ向けていた。そうして10時間以上前に行ったのと同じ受け答えをしたのだ。
またしばらく無音の時間が続く。
部屋に窓はない。暖色のランプは時の流れを長く感じさせるのに役立つ。時の流れなどお構いなしに、ランプは狭い部屋をこうこうと照らし続けている。
このランプを見ていると、拷問官は今日もいつも通りだと気持ちが落ち着いてきた。
再び器具を手に取る。金属の音だけが部屋の中にあった。
しかしそれは違和感の第一歩だった。
男からは唾を飲む音もしない。瞬きの数は増えていたが、それでもしっかりと視線をこちらへ向けている。
その視線は針のように鋭く、恐ろしさがあった。
拷問官にとって、このような表情は見飽きたはずだった。死んでいった男の仲間達。組織への恨み、復讐心。拷問官にはどうでもいいことだった。
この男はそのような顔でありながらも、どこか冷静に見えた。
ランプが男の瞳を照らす。そこにくらい闇の中から燃えあがる光を見て、拷問官はため息をついた。
これはまだまだ時間がかかりそうだ。
飛行機の音がする。距離は離れているのに、風を切ってごおごおと音を立てている。
同時に聞こえるエンジンのような音は、風を切る音よりも少し高い。エンジンの穴が空よりも小さいからだろう。
エイは今日も仕事のはずだが、暇でやることがない。一人きりの部屋で目に映るのはパソコンの編集されない表計算ソフトの罫線、だが心は上の空だ。
エイには1ヶ月後、飛行機に乗る予定があった。もともと旅行は好きだが、飛行機に乗るのはずいぶんと久しい。車や電車よりも持ち込み制限が厳しいので、慎重になってしまう。
そんなわけでエイはもう旅支度を始めていた。スマホのバッテリーや液体の持ち込みは問題なかったか。チェックインはどのくらい前に済ませておかねばならないか。休日はもっとゆっくりしたいのに、昨日はそれだけで1日が過ぎてしまった。
そして週が明け、相変わらず大きな仕事はないままだ。
カーテンに遮られて空は見えないが、エイはその先にある青空を想像する時間が好きだった。目に見えないから、どこまでも想像ができる。あの音は海外へ飛ぶのか、まだ高度を上げているのだろうか。
そんなことを考えているうちに、パソコンがもうすぐ会議の時間だと告げた。カメラ越しに無意味な時間が始まる。いや、そうすると飛行機について考える時間も無意味なのか?段々とカーテンの向こうが曇り空に見えてきた。
案の定、会議では新しく決まったこともなく、エイに振られる仕事もなく終わった。会議用の顔をやめて椅子にもたれ掛かる。
会議が終わると夕方だ。飛行機の音は変わらず聞こえてきている。カーテンの影には僅かにオレンジ色が落ちていた。
エイは自分の目標を見失っていることに気づいていた。目標がないから仕事が暇になってしまうことにも。
飛行機の目標は高く飛ぶことではない。客あるいは荷物を遠くへ運ぶことだ。エイもこの後運ばれる予定がある。
飛行機はこんなにも雄大な音を立てているのに、エイよりもはるかに速く動いていて、1日何本も忙しなく往復していた。そう思うと、ふとカーテンの向こうを見たくなった。
午後の空は眩しい。雲はなく、遠くに飛行機が見えた。飛行機は決して速くは見えないが、間違いなく動いていた。
エイも全く仕事をしていないわけではなかった。日々淡々と同じような業務をこなしてあとはやることがないだけだ。
飛行機と自分、違うのにどこか似ている。エイは自分も動けているはずだと勝手に結論づけた。
明日も仕事をする。それでいい。どんなことでも、経験は高く積み上がっていくはずだ。
飛行機に生きる意味をもらったような気がして、エイは少しだけ前を向いた。