【Kiss】
「おまたせしましたぁ〜」
ほぼ予定どおりの時間にもかかわらず、スミレ先生はいつもこう言いながら爽やかな笑顔で僕の前に現れる。
「お忙しいのに、お時間割いていただいてありがとうございます。どうしても、次回作の相談に乗っていただきたくて…」
「いやいや、先生。それ、原稿を依頼している僕の台詞ですから。実際、今日の打ち合わせをお願いしたのはこちらの方ですし」
「ふふふ、確かにそうですね。でも、私もちょうど相談したかったのでタイミングはバッチリです。さすがは『担当さん』ですねぇ〜」
そう言いながら、スミレ先生はいつものようにカバンの中から「ジャポニカ学習帳」と万年筆を取り出した。打ち合わせをするときはこまめにメモをとり、時にはその場で原稿の冒頭部分ができてしまうこともある。
「珍しいですよね。今どき、先生みたいに手書きにこだわる作家さんって」
しまった、つい失礼なことを言ってしまった。作家と編集担当という関係が長くなり、ついつい余計なことを言ってしまう瞬間が増えていることは自覚して反省していたはずなのに。
「手書きっていうか、万年筆が大好きなんですよ。だから、隙あらば万年筆を使いたいっていうのが本当のところです」
なるほど。でも、これほどまでに人を惹きつける万年筆の魅力というものが今ひとつわからない。
「万年筆のどこに惹きつけられるんですか?」
「それはですね…」
と、スミレ先生はジャポニカ学習帳の白紙のページに万年筆のペン先をそっとあてた。その瞬間、ブルーグリーンのインクが白い紙に向かって流れ出す。
「この『Kissをする瞬間』がめっちゃ好きなんです」
き…キ…Kiss…ですか⁈
「そうですよ。この万年筆のペン先と白い紙が触れ合う瞬間って、Kiss以外にどう表現するんですか!」
いつも、穏やかでほんわかしたイメージのスミレ先生がこれほど激しく力説するのを初めて見た。
「私、筆圧が弱いので他の筆記具だと書いたものを読み返すと文字がかすれていたり薄すぎたりで見づらいんです。でも、万年筆だと一定の力を加えて書けばインクが均等に出てくれる。いわば『弱者に優しい』筆記具なんです」
私は万年筆に救われて作家になれたんです、とスミレ先生は嬉しそうに語った。
「じゃ、そろそろ打ち合わせに入り…」
と言うスミレ先生だったが、僕には先ほどから心に引っかかることがあった。
「あの、先ほど先生が言われた『Kissをする瞬間』って、身近な人なんかには感じないんですか?」
あ、やっぱりマズかったか。さすがに怒らせてしまったかと思ったが、意外にもスミレ先生は冷静だった。
「今のご時世、それってコンプライアンス違反ですよね。だから、ノーコメントです」
ですよね。余計なことを言いました。
申し訳ありません、と謝ると
「でも、あんな素敵な瞬間が自分の元に訪れることがあれば、それはそれで嬉しいですよね」
ねっ、とイタズラっぽく笑みを浮かべ、スミレ先生は僕の顔を真っ直ぐ見つめている。
やはり僕は、だいぶマズイことを言ってしまったらしい。いつもよりだいぶ早くなってしまったこの鼓動は、打ち合わせが終わってもなおスピードを緩めることはなさそうだ。
【あなたに届けたい】
「モクレンの花は、地球上最古の花木って言われているんだって。1億年以上も前から、どんなときでも上を向いて咲いてるのってすごくない?」
去年、満開の紫木蓮を見ながら彼女はそう言って眩しいほどの笑顔を見せた。1億年の歴史の中でどれほど辛く悲しい出来事が起こっても、空を見上げるように咲くモクレンの花に、彼女は自分の姿を重ね合わせていたのかもしれない。
あの日からもうすぐ1年が経つ。
最期の日を迎えるそのときまで、彼女は常に笑顔だった。激しい痛みも耐え難い苦しみもあったはずなのに、一切それを見せなかった。その姿は、あの日彼女が見ていたモクレンの花そのものだった。
彼女が好きだった曲がラジオで流れた。
「この曲がきっかけで、モクレンの花に詳しくなったのよ」と教えてくれたあの曲。僕は、彼女が旅立ってから初めて泣いた。曲が終わってもなお、涙が止まらなかった。
僕は、彼女と過ごした日々の記憶を少しずつ書きおこしはじめた。モクレンのように生きた彼女のことが、いつか誰かの心に届いて花開くことを願って…僕は今、涙の向こう側に歩みを進めている。
【特別な夜】
同じライブハウスの前を、もう何往復しているんだろう、私。ここまできたらもう中に入ってしまえばいいものを、変なプライドが邪魔しているのか入り口を素通りしては戻り、また素通りしては戻ってしまう。
1ヶ月前、些細なことで彼と喧嘩した。彼は地元ではある程度知られたミュージシャンで、定期的にライブハウスのステージに立っている。私には、彼がその現状に甘んじているように見えて歯痒かった。あなたには、前に進もうという姿勢が感じられない-そう言って、私は彼のもとを去った。
開演数分前、ようやく中に入った私は観客の多さに驚いていた。知り合った最初のころは半分も埋まることがないのが常だったのに、今日は空席を探すのが難しいくらいだった。
ようやく席に着いたと同時に、彼らのステージが始まった。昔から馴染みの曲もあったが、初めて聴く曲も少なくなかった。きっと、私と別れた後も曲を作り続けていたのだろう。
「頑張ってたんだなぁ、あの人なりに」
そう思い、なかなか真っ直ぐ見られなかったステージ上の彼に目を向けた。汗だくで振り絞るように歌う彼の姿は、昔と変わらずかっこよかった。そして、あの頃よりも歌うことを楽しんでいるようだった。
「最後はいつものこの曲です。聴いてください」
聞き馴染みのあるメロディが流れてくると、いつの間にか一緒に口ずさんでいた。そして、いつの間にかステージ上の彼と目が合った…気がした。
ライブが終わり、会場を後にするとすぐに聞き覚えのある声で呼び止められた。さっきまでステージの上で輝いていた彼が、息を切らして目の前に立っている。
「ありがとう、来てくれて。あの曲も一緒に歌ってくれて…嬉しかった、ホントに」
そう言って笑う彼は、あの頃のままだった。でも、確実に前を向いて進んでいるのだと今ならわかる。
「あのときはごめんなさい。私、何もわかってなかった。もう遅いかもしれないけど、あなたが積み重ねてきたものがやっとわかった気がする。もし、できることならまた…」
そう言いかけたところで、彼が言葉を重ねた。
「俺と一緒に歩いてくれないか。少しずつかもしれない、立ち止まることもあるかもしれない、それでも一緒にいたいんだ」
よかった。まだ、間に合った。
私は彼にお願いをした。
「今度は目の前じゃなくて、隣に座ってあなたの歌を聴きたいんだけど」
彼は笑顔で頷くと、私の手をとった。
「帰ろう、一緒に」
私も笑顔で頷き、この特別な夜の幕が降りた。
【海の底】
海の底へ堕ちていくような、そんな感覚を意識するようになったのはいつからだろう。呼吸を深く、意識を飛ばすように深く深く、光から暗闇に近づいていくあの感覚。自分の心と身体を整えるため、いつの間にか身についていた。
「はいっ、今日もいい数値ですね〜」
そう、血圧測定にはホントこれが欠かせないのだ。
おかげで本日も無事正常値だ。
【20歳】
「何せ20歳の記念すべき誕生日だからな。盛大に祝ってやらなきゃなぁ」
その日、俺たちスーツアクターの大先輩でありながら誰よりも現役バリバリの島さんは、いつも以上に気合いが入っていた。
「島さ〜ん、サバ読むにも程がありますよぉ。20歳って、子どもどころかお孫さんの年齢じゃないっすかぁ」
「サバなんか読んでねぇよ。この『モエモン』は今日でちょうど20歳なんだよ」
年若い後輩からのヤジに、島さんは胸張って答えていた。
『モエモン』というのは、誕生から現在に至るまで島さんが演じてきた人気キャラクターだ。ボールのように丸っこい体型なのに、いざとなると素早い動きで敵を撹乱させる。小柄で俊敏な動きが得意な島さんならではのキャラクター設定だ。
「主役じゃないが、モエモンは俺にとってのヒーローだ。だから、俺なりに20歳のバースデーを祝ってやりたいんだよ」
並々ならぬキャラクターへの愛と、それを完璧に演じることへの覚悟。それが、スーツアクターのレジェンドとして島さんが一目置かれる理由だ。俺も一緒に演じていて、毎回勉強させてもらっている。
「それじゃ島さん、今日はモエモンのバースデーをみんなで祝いましょうよ」
そう言うと、島さんは首を横に振った。
「いや、お前らはいつもどおりでいいんだ。俺もいつもどおり演じるだけ。それが『祝う』ってことだ」
島さんはニコッと笑うと、ステージに上がる準備を始めた。いつか自分も島さんみたいな存在になれるのかな…と思いながら、俺はその背中を見つめていた。
ステージはいつもどおり盛況で、無事にモエモン20歳のバースデーを終えた、はずだった。裏手に戻ってきた島さんは、満足気な表情を浮かべながらもどこか様子がおかしかった。ハアハアと息は切れ、普段よりも大量の汗が流れ落ちていた。声を掛けようとしたその瞬間、島さんは胸を押さえたままその場に倒れ込んだ。そして、そのまま意識が戻ることはなかった。
島さんが亡くなってから1年後、1人の青年がスーツアクターを目指してやってきた。
「演じたい役とかあるの?主役とか悪役とか」
そう聞くと、彼は迷いなくこう言った。
「僕、モエモンをやりたいんです!」
彼の目は真っ直ぐ俺の方を向いていた。モエモンは、島さんとの付き合いが1番長かった俺が引き継いでいた。間近で見てきた俺でさえ、あのキャラクターを島さんに変わって演じるのはかなり難しいと感じていた。
「モエモン、難しいよ。ヒーローとも悪役ともまったく違う、独特の動きだし。だからこそ、魅力もあるんだけど…」
すると、彼は意外なことを言った。
「大丈夫です。僕、モエモンの息子なんで」
は?
モエモンて、息子いる設定でしたっけ?
俺の目が点になっているのを見て、彼は言葉を続けた。
「すみません、いきなりで。僕、モエモンを演じていた島の息子です。幼い頃に両親は離婚して、父とは一緒に暮らしていなかったんですが、モエモンのステージはずっと見に来ていたんです」
えっ、島さん息子いたんだ。そういえば、島さんとは仕事の話ばかりで家族のこととかプライベートなことは聞いたことなかったな。
「父が最後に演じたモエモンも見てました。あの日は僕の20歳の誕生日で、珍しく父から見に来てと声をかけてもらってたんです。いつもどおり、コミカルでカッコよくてキレッキレのモエモンでした。ステージが終わった後、まだモエモン姿の父から『20歳、おめでとう。俺も同い年だ』って言ってもらいました。まさか、その直後に意識を失うなんて思っても見なかった…」
俺は彼の話を聞きながら、島さんが20年前にモエモン役を引き受けたときに言っていたことを思い出していた。
「この歳で新キャラ演じるって、もう伸びしろしかないよなぁ。こんなチャンスめったにあるもんじゃないし、やってみるか」
あの言葉の裏には、誕生したばかりの息子の未来も見据えていたのか。まさかとは思うが、いつか自分の息子が同じ仕事を選んだときにこのキャラクターを譲るつもりでいたのか。今となってはわからない話だ。
今、俺はいつか彼にモエモンを演じてもらいたいと思っている。ただ、それはもうちょっと先のこと。俺自身、この伸びしろしかないキャラクターの魅力をまだ味わい尽くしてはいないから。