湯船遊作

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10/30/2023, 2:05:10 PM

懐かしく思うこと

手を伸ばしたくなる月は一年ぶりだった。
満月の夜。下戸な僕が月に一度、酒を飲む日だ。
ベランダで、切子のグラスにまあるい氷をがらんと入れた。
氷はまるで元々そこにはまっていたみたいに収まる。
そこにウイスキーをちょびっと、ソーダ水を並々に注いだ。
カランコロン――
ドアチャイムを優しく叩いたような音を鳴らしながら、氷は空中ブランコみたいに一回転して浮かび上がった。
「ふぅ……」
ほっと、一息。
酒をかき混ぜる。
カラカラ――
ドロップの入りの缶を振ったみたいな音がする。
まだ鳴り止まないうちに、僕は酒をぐっと飲んだ。
「うぇ……。やっぱキツいよ」
(馬鹿だな。そんなの飲んだって仕方ないじゃないか)
「そうでも無いんだぜ」
(いいや。君は馬鹿なんだ)
「お前の方が馬鹿だった」
(……)
1年前、満月の夜。
僕の親友は独りで逝った。
遺書には「ばーか」って一言。
元々その気はあった奴だ。
どこか厭世的で、勝手に悟ったような顔して、いつも僕と反対のことをする。
「ばーか」って、誰が馬鹿だよ。
あの日の晩からしばらく、あの満月は過ぎた夜じゃなかった。月が満ちる度、ついさっきお前がいなくなったみたいな、そんな気分だった。
あっちでもニヒルに笑ってるんだろうなって、お前を懐かしく思えるようになったのはつい三ヶ月前なんだ。
思う度、チビチビと酒を飲んだ。
グラスの酒が尽きたので、僕はまた、ウイスキーを注ぐ。
カラン――
(もうやめとけって)
「月に一度なんだよ」
(なら来月もあるだろ)
「うるさいぞ寂しがり屋」
(それはお前のことだろう!)
「怒るなんて珍しいな」
しんと冷たい夜に、僕の体はまだ暖かい。
(……風邪ひくぞって言ったんだよ)
「構わない」
(構わなくない。熱でも出たらどうするんだ)
「そりゃそんとき考えるさ」
(それじゃ……!)
「怒るな。人のために怒るな。さっきみたいに自分のために怒れよ」
(……)
「不器用な奴だな。素直に言えよ」
(……お前はまだ、こっちに来るべきじゃないし、近づくこともしちゃいけない)
「もうちょっとだぞ」
(……元気にしてて欲しい)
「……分かったよ」
僕はまた、ウイスキーを注いだ。
「なんてな。誰がお前の言いなりになるか!」
(お前……!)
グイッと酒を一気に飲んだ。
「また来月な」
(もう飲むな)
「また来月な」
(もういいから)
「また来月な」
(……ありがとう)
「……はじめからそう言えって」
やっと素直になりやがって。
星の数が増えた気がして。……ほとんどソーダ水のウイスキー。たった三杯の間しか会えない。
やっぱりもう一杯飲もうかな。
『やっぱりお前は馬鹿なんだ』
「えっ? 」
声が聞こえた気がして振り向くと一陣吹いて、さ、寒い。
「は、ぶわぁっ、ハクション!!」

10/29/2023, 1:51:24 PM

もう一つの物語

弁当を作って、朝食を作って、皿洗いをして……
結婚生活3年目の日常である。
丹原 美咲(たんばら みさき)は結婚して3年の主婦である。子供はいない。まだしばらく予定もない。
元々は雇われのライターだったものの、夫の強い要望によりやむ無く主婦になった。
「貴女を外に出したくない!」
婚前、彼はそんなことを言った。
「どういう意味よ」
「家にいてくれ!」
「仕事があるし無理よ。明日も打合せがあるの」
「なおさら家にいてくれ!」
駄々をこねる彼の言い分にイマイチ要点を得ない。
「どうしてよ!」
「何だっていいだろ!」
「なんだってじゃ嫌よ! 私、仕事好きなの。沢山の人に話を聞いて、沢山の出会いを記事にしてるのよ。楽しいわ。楽しいだけじゃない。誇りだってある!
貴方だって、『素敵な仕事だね』って言ってくれてたじゃない!!」
「それは今もそうだけど……!」
「じゃあ何が問題なの!」
いま思えば私は馬鹿だった。
結婚を前にした彼の不安を全くわかっていなかったのだから。
そんな馬鹿な私に、
「綺麗だから!!!」
彼は馬鹿正直に言った。
フフフ――
お茶を啜りながら、昨夜に届いていたメールを見る。
ライター時代の後輩からだった。
彼女は私の寿退社を誰よりも懸命に止めようとしてくれた人だ。
「仕事続けましょうよ! 丹原さんならwebディレクターになって、プランナーになって、どんどん昇進できますから!」
って。
随分と会っていない。
こうして連絡を貰うのも、仕事を辞めてから初めてだった。
「あら、そうなの」
どうやらWebプランナーに昇進したらしい。
また、近いうちに独立するからぜひ力を貸して下さいとの事だった。
「……悪くないかもね」
彼女のことだから、きっとそれなりの席と開けた道を私に与えてくれるだろう。
沢山の人に囲まれて、誇り高き仕事をして、相応の報酬を貰う。
そんな未来も、悪くないかもしれない。
でもね、
「私、馬鹿なのよ」
底に残ったお茶をグイッと飲み干す。メールを閉じると、洗濯機のブザーがなった。

10/28/2023, 1:35:03 PM

暗がりの中で

土倉に閉じ込められて何時間経ったのだろうか。
そろそろ限界である。
僕はチョークで地面に父の似顔絵を書いていた。似顔絵にイタズラするためである。
元はといえば、父がテストの点数についてアレやコレやと必要以上に文句を言ったからだ。
あの時の僕の気持ちを、貴方はしらないだろうけどね。
父よ、僕は怒っていたんだぞ。頑固なアンタにゃ何を言っても分かんないでしょうけど、僕は怒ってるんだ。
居間に正座した僕の正面。ガシガシと叱る父の背中の掛け軸。
「大切なものだ」
父さんはいつかそんなことを言ってた気がする。
父さん。僕も大切なものがあるんだ。
それは例えば学校の宿題を忘れたら無くしてしまうくらいに脆くて、触れられると毛が逆立つくらいに大切なものだ。
それを貴方は侵犯したんだ。
でも父さんには分からない。僕の怒りが、分からない。
だから教えてやるんだ。
そうして僕は掛け軸を破いて、この土倉に閉じ込められた。
さて、そろそろ出来上がるかな。
最後に眉を書くと、床には父さんそっくりの似顔絵が出来上がった。
掛け軸破いても分からないならこうしてやる!
「おりゃ! くらえ!」
僕は小便した。
元はといえば、テストの点数で僕を必要以上につついたのは父さんだ。
掛け軸を破いた僕の怒りに気が付かないのは父さんだ。
これくらいしたっていいに決まってる!
そのときだった。
「言いすぎた。……蕎麦でも食いに行かないか」
父さんの声と共に倉の扉がそっと開いた。
僕のそれはまだズボンの外だった。