ひなまつり
映画『田園に死す』の大きな雛壇が川を流れてくるシーンは映像のインパクトばかり頭に残っていたが見返すととても痛ましいシーンで雛祭りの日に見るものではなかった。
ここでもお雛様は女の子の成長を祝う意味のものとして扱われていた。
私のも多分まだあるんだよな実家に。仕舞われっぱなしのお雛様が。
引き継ぐ娘や姪がいないのを悲しむ気持ちに一瞬なったけれど、いても新しいのをあげそうな気がする。
私の成長を祝うためのものだから私と一緒に滅んでもらおう。それで正しいのではないか。
欲望
四十にして惑わず五十にして天命を知る六十にして耳順う七十にして心の欲する所に従えども矩を踰えず
七十で少しゾッとするのだ。
心の欲する所に従っても人の道を超えない彼の欲望は本当に彼本来の欲望なんだろうか。
耳なし芳一のようにカフカの処刑機械のように何かが彼の身体に書き込まれていく。
それは年齢に従ってじわじわと広がり、彼の身体も魂さえもが覆い尽くされて社会的に適切な欲望しか出力しなくなった姿が七十で、それで人間的完成ということなのか。
社会的要請の徹底的な内面化。社会との合一。
これは孔子が自分の人生を語っている言葉だから、彼はそのように努力してきた生涯でそのようにあるのが彼の欲望だということなんだろうけど。
それに彼はむしろ彼の言葉で社会を覆い変化させた側だからな。書き込まれた言葉だって彼自身の言葉だ。
高く高く
24時間では書き終わらないのだった。
アイデアを出して大まかな話の形が決まってでもオチがつかない、とかそのくらいで次のお題が来てそっちでも中途半端に何か思いついてこっちの方が書きやすいかもと目移りしてごちゃごちゃになってる間に次のお題次のお題と来てだんだん無理な気がして諦めてしまう。
お題の中から一つ選んで三日から一週間で一作書くくらいのペースに乗れると良いのかもしれない。
書き上げてアップしても一週間前のお題なんて誰も覚えてなくて突然どうした?って感じかまたは流行に乗り遅れたような間抜けな印象になるかもしれないけどだからといって誰かの迷惑になるわけでもないだろう。
もっと早く書ける形を思いつけばそれに越したことはないんだけど。
形にならなかった話の断片が空に浮かんでは消えていく。
通り雨
黄昏時、ビルの谷間の寂しい路地だ。私は退勤して家路を急いでいた。
通行人とすれ違いざま「来るぞ」と聞こえた。
私に言ったのだろうか?
振り向くと紋付羽織袴、そして丁髷。整った身なりの江戸時代の侍と目が合った。
あれ?と思った瞬間ふっとあたりが暗くなり、遠くから聞こえてきたと思った悲鳴が気づくとすぐそばから発せられている。降りかかった生温かい液体を拭って手を見ると血液だった。
斬られて路上に落ち燃え上がる提灯が、地面を転げ回って苦痛の声をあげる和服の男を照らし出している。
さっきの紋付侍は現代の景色と共に消え、かわりに私が江戸時代に来てしまったようだ。
長い板塀と水路に挟まれた舗装されていない小路で、男を斬ったと思しき殺気立った賊がこちらに刀を向けている。来るのか、と思ったら斬られた方の仲間らしい若い侍が抜刀して前に出た。
しばし対峙し、動いた途端気合いの声と共に何かの塊が吹っ飛んで路上に落ちた。指がついている。これは手首だ。
実際にそれが武器として使われる現場に立つと刀はこんなに恐ろしく見えるものか。
劣勢となった賊は逃げるか迷ったように見えたが、突然私に凄まじい殺意を向け、駆け寄って刀を振りかぶった。叫んだ声は天誅、と聞こえた。
これは過去の出来事で、実際に私の位置にいたのは紋付袴の侍だったのではないか。彼はここで殺されたのか。私には天誅される覚えはないぞ。
ゆっくりと感じられる時間の中でこんなことを思っていた気がする。
私は反射的にノートパソコンが入った鞄を盾にして刀を受け、横に薙ぎ払った。
体勢を崩した賊の背を若い侍が袈裟斬りにした。
ざあっと血が飛んで雨のようにあたりに降り注いだ。
顔についた血を拭って手を見ると、何もついていない。
気がつくと私は元のビルの谷間にいた。
この時は気づかなかったが、道の端には小さな石碑があり、何人もを殺した幕末の暗殺者がついに返り討ちにされて命を落とした現場がここであることを伝えていた。
目的を遂げられなかった暗殺者の怨念が今でも標的の子孫を狙って暗殺の場面を再現しており、最初に現れた紋付袴の侍はご先祖様で私を助けようとしたのではないか、今はそう考えている。
声が聞こえる
6年前に同級生の男の子が行方不明になった。今も発見されていないその子の声が学校近くの沼から聞こえるという。その話を教えてくれたのは小学3年生だった当時私と仲の良かった女の子で、久しぶりに話したらこんな話題が出て一緒に沼に行くことになった。
人気はないがおよそ幽霊の出そうな気配はない、亀が日光浴しているだけののどかな沼だった。
「ダイバーが潜って調べたんじゃなかったっけ?」
「この沼の底は海に繋がっているって聞いたことあるし、そっちに流れちゃったのかも」
「それでも幽霊はこっちに出るのかなあ」
「幽霊じゃないかもよ。青木君は生きてるって私は思ってるんだ」
「えっ?」
「実際何度か聞いてるんだよね。はしゃいで遊んでいるような青木君の声。だから一緒に聞いて欲しくて」
耳を澄ましても自然の音しか聞こえない。
「子どもの声なら小学校から聞こえたってことはない?」
「あれは青木君の声だったよ」
彼女の真剣さが怖くなってしばらく一緒に座っていたがそれらしい声が聞こえることはなかった。
そんな出来事があったことも忘れていた数年後、唐突に青木君は帰ってきた。彼は本当に沼から上がってきたのだ。驚くべきことに失踪当時と同じ小学3年生の外見のままで、どこにいたのかと聞かれると竜宮城と答えたそうだ。目下メディアの関心事は彼が大事に抱えて離さない漆塗りの箱の中身にある。