通り雨
黄昏時、ビルの谷間の寂しい路地だ。私は退勤して家路を急いでいた。
通行人とすれ違いざま「来るぞ」と聞こえた。
私に言ったのだろうか?
振り向くと紋付羽織袴、そして丁髷。整った身なりの江戸時代の侍と目が合った。
あれ?と思った瞬間ふっとあたりが暗くなり、遠くから聞こえてきたと思った悲鳴が気づくとすぐそばから発せられている。降りかかった生温かい液体を拭って手を見ると血液だった。
斬られて路上に落ち燃え上がる提灯が、地面を転げ回って苦痛の声をあげる和服の男を照らし出している。
さっきの紋付侍は現代の景色と共に消え、かわりに私が江戸時代に来てしまったようだ。
長い板塀と水路に挟まれた舗装されていない小路で、男を斬ったと思しき殺気立った賊がこちらに刀を向けている。来るのか、と思ったら斬られた方の仲間らしい若い侍が抜刀して前に出た。
しばし対峙し、動いた途端気合いの声と共に何かの塊が吹っ飛んで路上に落ちた。指がついている。これは手首だ。
実際にそれが武器として使われる現場に立つと刀はこんなに恐ろしく見えるものか。
劣勢となった賊は逃げるか迷ったように見えたが、突然私に凄まじい殺意を向け、駆け寄って刀を振りかぶった。叫んだ声は天誅、と聞こえた。
これは過去の出来事で、実際に私の位置にいたのは紋付袴の侍だったのではないか。彼はここで殺されたのか。私には天誅される覚えはないぞ。
ゆっくりと感じられる時間の中でこんなことを思っていた気がする。
私は反射的にノートパソコンが入った鞄を盾にして刀を受け、横に薙ぎ払った。
体勢を崩した賊の背を若い侍が袈裟斬りにした。
ざあっと血が飛んで雨のようにあたりに降り注いだ。
顔についた血を拭って手を見ると、何もついていない。
気がつくと私は元のビルの谷間にいた。
この時は気づかなかったが、道の端には小さな石碑があり、何人もを殺した幕末の暗殺者がついに返り討ちにされて命を落とした現場がここであることを伝えていた。
目的を遂げられなかった暗殺者の怨念が今でも標的の子孫を狙って暗殺の場面を再現しており、最初に現れた紋付袴の侍はご先祖様で私を助けようとしたのではないか、今はそう考えている。
9/28/2023, 7:17:00 PM