教室の窓際で1人夕日に背を向けていた僕は、その時何を思っていたのだろうか。
嬉しかったのか、悲しかったのか、ただぼーっとしていたのか。今となってはわからない。
10分か、1時間か、はたまたそれ以上か、立った時
「パシャッ」
というシャッター音が聞こえた。
意識が急に覚醒した。
僕は微睡の淵にいたことを理解した。
シャッターの主は言った。
「おはよう」
と。
私は、挨拶を返し、なぜ写真を撮ったのか聞いた。
曰く、シャッターの主は美術部で、今週末までに絵を描いて提出したいといけないが、書きたい絵や構図が思い浮かばず、散歩している時に僕を見つけ、この構図を参考に描きたい。と思って写真を撮ったんだそうだ。
写真を見てみると、そこに映るのは自分なのに、自分ではないかのように美しかった。
影になりよくわからないミステリアスな表情、その縁から漏れ出るオレンジの光。
これをみると、逆光がさまざまな映画や歴史的な絵画で選ばれているのがわかる気がした。
それから少し話したあとシャッターの主は教室を出ていき、僕もそれを習うように教室を後にした。
私はこんな夢を見た。
「サッカー選手になりたい!」
「お父さんみたいになりたい!」
「仮面ライダーになりたい!」
etc etc…
私はこんな現実を見た。
才能の壁にぶち当たって、心が折れた。
努力という名の茨の道から逃げて、楽な方へ。
そんな事してるから運という味方はやってこない。
わかる。
こんな事じゃいけないんだって。
でも、
才能の壁を飛び越えるのも、
茨の道を歩くのも、
運という不確定要素に身を任せるのも、
怖いんだ。
一歩でいいんだ。
わかってる。
でも、その一歩がなかなか出せない。
だから、
その一歩を踏み出せる人って、
夢を叶える人ってすごいよな。って思う。
「タイムマシン」
この言葉を聞いたことはないだろうか?
夢と技術とロマンと、少しの恐怖がこもっている
「過去はは変えられない」
という常識を科学や工業の力で覆すことができたなら?
言葉だけ聞くと、羨ましいと思う。
だが本当に「変えたい過去」があるのか?
いや、ない。
あるはずが、ない。
あっていいはずが、ないのだ。
「過去はは変えられない」
この言葉の本質は、
過去は、変えてはいけない。というものだと思う。
亡くなった人やペットと会いたい気持ちもわかる。
青春をもう一度して、あの子と結ばれたいのもわかる。
あの怪我や事故がなかったら……というのもわかる。
もっと勉強しとけばなぁ、めっちゃわかる。
でも、
あの時親が亡くなったことが今の自分のピースになって、
あの子に告白できなかった事が自分のピースになって、
あの怪我があった事が自分のピースになって、
ずっと勉強せずに遊んでいた事が自分のピースになって、
「私」という名のパズルが完成している。
そのパズルを崩してまで、過去に行きたいのか?
「私」は、変えられないのに。
「現代には、変わるチャンスなんてゴロゴロ転がってるくせに、過去にばかり目を向けて。過去に責任をなすりつけるな。」
「タイムマシン」はこう、言っている気がする。
その日の授業が全部おわって、
学校のエントランスで待ち合わせして、
バスでイオンモールへ移動して、
現地集合の奴らと合流して、
安いファミレスへ行ってご飯を食べて、
ゲーセンで遊んで、
お酒とケーキを買って、
友達の家にみんなで行って、
初めてのお酒を飲みながらケーキやお菓子を食べて、
マルチプレイのゲームをして、
気づいたらみんな寝ていた。酔っていたかすらわからない。
あぁ、なんて素敵な夜、
ロマンチックでもなんでもない、バカみたいな日常。
あぁ、なんて素敵な20歳の誕生日、
本当にかけがえのない、バカみたいな非日常。
「鳥のように自由に飛びたい」
私は子供のときそう思った。
だが、
「魚のように自由に泳ぎたい」
と、思うことはなかった。
なぜなのか。
もしかしたら、空はいつでもそこにあり、
大気圏の上に宇宙があることを悟っていたのかもしれない。
もしかしたら、私は海には限界があることを、
底があることを知っているのかもしれない。
まあそんな一時の妄想ごと、
大気圏外や、海の底で眠っていてほしいものだ。