「で、俺は何でせっかくの連休にお前と二人でグランピングなんてさせられてるんだ?」
「⋯⋯キャンセル料が勿体なかったからだなぁ。当日キャンセルは100%なんだよ」
三連休の初日、天気はこれでもか、という程の晴天で絶好の行楽日和だった。
午前中に家を出て、途中、親友の梶原を拾って高速を走ること2時間弱。
予約していたイタリアンレストランで少し遅い昼食をとり、辿り着いたのがここ。
雑誌で特集が組まれるほど評判もよく人気があって、半年前でも予約が難しいと言われるグランピング施設。
去年の年末に運良くこの三連休に予約が取れて、半年以上かけて色々と準備をしてきた。
「あのな、そういう事じゃなくて⋯⋯。はぁ、俺には理由を聞く権利があると思うんだが?」
「⋯⋯あぁ」
施設に着いて、取り敢えず温泉に入ってひと息ついた。
夕食は豪華なバーベキューを腹いっぱい食べ、再度温泉に入って身体の疲れを癒すとすっかり日も沈み、眼下には夜景が広がっている。
梶原は焼酎、俺はワインを片手に、テント外に備え付けられたソファに座りゆったりと時間を過ごしていた。
「夜中いきなり『明日11時頃迎えに行く。泊まりで旅行しよう』なんて、俺にだって予定ってもんが⋯」
「予定⋯」
「⋯⋯⋯ねぇよ、ハイ、すみません、見栄張りました。予定なんてこれっぽっちもありませんでしたぁ」
高校からの仲である梶原とは時折こうして二人で出かける。
いつもは予定の一週間前には連絡を入れてはいるけれど。
梶原は俗に言うニートってやつだ。日がな1日、いや一年中好きなことをして生きている。
本人曰く、一生遊んで暮らせるだけの金があるなら、あくせく働く必要は無いだろう?とのことで、都心から少し離れた場所のファミリーマンションを購入して、ひとりで生活している。
梶原は高校の頃からバイトに明け暮れていた。大学生の頃にはバイトで貯めた金を元に、投資を始め見る見るうちに元手を増やし、卒業する頃には一般サラリーマンの生涯年収の十数倍にあたる資産を保有していた。
もちろん今でも投資はしているが、資産の十分の一程度で長期のものに絞ってやっていると言っていた。
最近は陶芸にハマったらしく、近くに作業場を借りて黙々と器を作っているらしい。
その前はDIYに嵌り、家を1軒購入してひとりでリフォームし、売りに出していた。
凄いのはリフォーム時に、電気配線の工事をするのには資格が必要だ、とか言って、業者に依頼するのではなく、その資格を自分で取ってしまうところだ。
俺はいつも梶原のそういう所に憧れてしまう。
「別れたんだ、昨日」
「え?あの、ボンキュッボンの彼女と?」
「あぁ」
「⋯3年目、だったよな?この間指輪も買ったって言ってなかったか?」
「買った。給料3ヶ月分まではいかないけど」
俺は徐ろに上着のポケットに手を突っ込み、手のひらに収まる小さなラッピングされた箱を取り出した。
白と青の2色のリボンがかけられた白い箱を、梶原に手渡す。
その中には少し大きめのダイヤモンドとサファイアを使ったデザインの指輪が鎮座している。
「もしかして、今日ここで?」
「そのつもりだった、けど、お前にやる」
「あのな、貰っても嬉しくねぇよ」
「捨てても良い。流石に自分では⋯捨てられない」
梶原は暫く手のひらで箱を弄ぶと、ポケットにしまい込んだ。
「話せ。少しは楽になるだろ」
「ありがとう」
話せば、自分が情けなくなる。が、誰かに聞いて貰いたかった。
俺は、ぽつり、ぽつりとここ最近のことを梶原に話した。
「彼女が言うには、俺はキープだって」
「キープ⋯⋯」
「ここひと月くらいかな、具合が悪いとか、忙しいとかで会えなくてさ。でも、前もそんな事あったから、あんまり気にしてなかったんだ。けど2日前に同僚が見たって言うんだ。取引先の社員と彼女が腕組んで楽しそうに歩いてたって」
「他人の空似とかじゃなかったのか?」
「だったら良かったんだけどさ、バッチリ彼女だった」
同僚は咄嗟に動画を撮っていた。
同僚の持つ小さな長方形の画面に映っている女は、誰が見ても、どこからどう見ても彼女でしかなく、しかも最悪な事にふたりが向かった先はそういうホテル。
ホテルに入る手前で濃厚なキスを交わし、お互いの腰に手を回しながらホテルに入っていくのを見て、俺の目の前は真っ暗になった。
それからの記憶は曖昧で、ただ俺は昨日の夜に彼女と会う約束をした。
彼女は明日会うのだから、と、乗り気ではなかったが、俺はどうしてもと頼み込んだ。
俺は彼女に否定して欲しかった。
あの時の俺は、ほんの少しの1%にも満たない希望に縋り付いていた。
待ち合わせた店で、同僚の撮った動画を彼女に観せると彼女はひとつ溜息を吐き出した。
そして、そこには俺の知らない女の顔があった。
『そうよ、これ私よ。彼は本命なの』
『ほん、めい?』
『あなたはキープ。でも、もういいわ。私、彼にねプロポーズされたの。見てこれ。凄くイイ指輪でしょう?』
彼女が鞄から取り出したのは、俺が買った指輪よりも大きなダイヤモンドがあしらわれた指輪。
『それに私、妊娠してるの。勿論、彼との子よ。あなたのはずないじゃない、何時もゴムしてたでしょう?』
俺は目の前にいる女が、自分が結婚したいとまで望んで愛した女だとは思えなかった。
彼女は運ばれてきた飲み物に口もつけず、椅子から立ち上がり
『あ、私のアドレス消しといてね。じゃ、サヨウナラ』
と言って、振り返ることなく店から出ていった。
俺は支払いを済ませ、店を出て、家に帰り、風呂に入った。
少しづつ頭の中が整理されてくると、胃がムカムカするような怒りと共に、何もかもどうでもいいという感情が湧いて来た。
ただそんな中、予約したグランピングの事を思い出して、キャンセルするくらいならと梶原に連絡を入れたのだった。
「女は怖いな」
ポツリと呟いた梶原の言葉には重みがあった。
梶原は大学在学中に修羅場を経験している。
まぁ、梶原が悪い訳ではなく、梶原を巡って女の子達が勝手に行動した結果の出来事ではあるが、それでも梶原の心に傷を残した事には変わりない。
誰が漏らしたのか梶原が随分な資産を持っていることが学内でも有名になっていて、梶原の周りには砂糖に集る蟻のように、男も女も集まっていた。
だが梶原はそんな奴らを相手にはしなかった。
元々人との付き合いが得意ではなかったこともあるのだろうが、梶原には俺以外に友達と呼べるような人間はいなかった。
基本的に無視を決め込んでいた梶原に対し、周りは勝手にヒートアップして行った。
そして、ある日の事件によって大勢の人間の体に消えない傷が残り、数人の人間に前科がついた。
幸いだったのは、その現場に梶原がいなかったこと。
「あぁ、怖いな」
手にしたワインをひと口飲んで、俺は空を見上げる。
東京では見られない多くの星と、夜空を分断する天の川の微かな光。
画面を通してみると、それはただの光でしかないが、自分の目でみる星の光は儚くも力強い。
「あぁ、会社行きたくねぇ」
本命と婚約した彼女は早々に退職するだろう。
仕事に対して真面目に取り組んではいたけれど、今の仕事が好きな訳ではないようだったから。
俺と彼女の事は、同じフロアの人間なら誰でも知っている程だったから、残される俺は皆から同情の念を贈られるだろう。
そう思うと、今から気が重い。
「辞めればいい、会社なんて」
「⋯お前なぁ」
「我慢して働きたいほど、そんなに今の仕事が好きなのか?」
「そういう訳じゃないが⋯」
「人生なんて短いんだ。その短い人生の中で悩んで傷ついて我慢して生きるなんて勿体ないだろう」
「そりゃそうだけど」
「ほら、見てみろ。宇宙のなんと偉大なことか!こんな広い宇宙の片隅の、小さい小さい星に住む、小さい小さい人間なんて、砂粒以下の存在だ。だったら、自由に好き勝手生きたっていいじゃないか!」
ミュージカル俳優みたいに大袈裟な身振り手振りを加え、ソファから立ち上がった梶原はグラスを持った手を空に突き上げる。
「親に心配させたくない」
「会社に勤めていれば安心するのか?」
「少なくとも無職よりは安心だろう?」
「ふむ。まぁ一般的にはそうか。ならば、会社を立ち上げよう」
「⋯⋯⋯は?」
梶原はくるりと踵を返して、満面の笑みをみせた。
その後ろには街の灯りと、満天の星。
「お前ひとりくらい、一生食わせてやれるだけの資産が俺にはある。だから、お前の人生を俺に寄越せ」
「はぁぁ?」
「やりたいことをやるのは楽しいが、やっぱり独りだと限度がある。だから、お前が必要だ」
「⋯⋯何だかプロポーズみたいだな」
「ん?そうか、なら指輪を贈らないとな」
そう言って、梶原はポケットから俺が渡した箱を取り出した。
「おい、それ⋯⋯あっ!」
梶原は器用に片手でラッピングを外すと箱を開け、中から指輪ケースを取り出しキラキラと光る街の灯り目掛けて放り投げた。
「捨てて良いんだろ?」
「⋯⋯あぁ、問題ない」
「安心しろ、ちゃんと新しい指輪買ってやる」
「要らねぇよ」
本当、いつも梶原には助けられる。
「そうか?じゃぁ、取り敢えず、俺たちの未来に乾杯だ!」
「ん?⋯あー、おう、乾杯だ!」
二週間後、会社で皆から哀れみの目で見られ、居心地の悪い思いをしていた俺のスマホに梶原からメッセージが届いた。
「マジか⋯」
画面には満面の笑みで書類を手にした梶原と、『お前の席も用意してあるぞ』の文字。
俺は休憩室のはめ殺しの窓から空を見上げる。
ビルの隙間の狭い空に浮かぶ白い雲が、風に流され形を変え、やがて視界から見えなくなっていく。
頭の中で再生される、星空と街の灯りに向かって叫んだ、偽ミュージカル俳優の言葉。
『宇宙のなんと偉大なことか!こんな広い宇宙の片隅の、小さい小さい星に住む、小さい小さい人間なんて、砂粒以下の存在だ。だったら、自由に好き勝手生きたっていいじゃないか!』
「よし、決めた!」
俺は休憩室のドアを開ける。
その先に彼女がいたような気がしたが、今はどうでもいい。
確か有給はたっぷり残っていたはずだ。
大きな仕事は終わったばかり。
今手元には重要な案件はない。
居室のドアを開け、目的の人物を探す。
窓際でモニターに向かい険しい顔をしているその人の名前を呼んで、満面の笑みで俺は近づく。
あの日星空の下で見た、偽ミュージカル俳優のように俺は自分勝手に生きることにする。
「居心地が悪いので、退職します」
「⋯⋯は?」
その後少し色々あったが俺は無事居心地の悪い会社を去り、そして今日、親友が立ち上げた会社へ入社する。
親友との楽しい未来に乾杯だ!
━━━━━━━━━
心じゃなくて頭に浮かんだことになってしまった (´-ι_-`)
『いつから、とか、そんなの覚えていない
いつの間にか好きになっていた
ただそれだけ
ダメだってわかってる
どんなに好きでも、どうにもならない事ぐらいわかってる
でも、諦められなくて、辞められなくて
結局今の今まで、ずっと好き
このままじゃダメだと思って、色々頑張ってみた
他に目を向けてみたり、あなたを見ないようにしてみたり
あなた以外に夢中になれるものを探してみたりもした
なのに忘れられるかな、と思うと、突然あなたの記憶が蘇ってくる
どうしてだろう
なんでだろう
こんなに好きなのは
特別なわけじゃない
本当に普通、なのに皆から好かれているあなた
だから決して、私だけのものにはならない
どうしよう
どうすればいいの?
あなたは、こんなにも私の心を捉えて離さない
もうこれ以上は、私病気になってしまう
止めないといけないのに
もう、終わりにしようって思うのに
やめることができない』
「あぁ、誰か私を止めてー」
「了解〜!」
Enterキーを押した直後に伸ばした手の先から、赤を基調とした袋が拐われた。
拐った犯人は袋の口をあけると、中から1本のスティック状のお菓子を取り出した。
袋に閉じ込められていた食欲をそそる香りが辺りに拡がり、独特のエビの風味が、食べてもいないのに口の中に拡がった気がする。
そして犯人は彼女が口にするはずだった5cmの菓子を口に放り込み、サクサクと小気味よい音をさせながら咀嚼した。
「あ、ちょっと、返しなさいよ」
椅子から腰を浮かし、自分の手元から拐われた袋に手を伸ばすが、もう少しのところで袋に、いや弟に逃げられた。
「止めて欲しかったんだろ?ご要望通り、止めてあげただけだよ」
「ち、違っ⋯わないけどっ、ソレ私のかっぱえびせん!」
「いーじゃん、いっぱいあるんだからさ。それにもう1袋食べたんだろ?」
そう言うと、犯人は部屋の隅に重なって置かれている段ボールに近寄った。
3段に積まれた段ボールが6箱、1箱12袋入りのはずなので72袋。
姉はコレをひと月かからずに食べきってしまう。
流石に弟としては姉の健康が心配になるところだ。
「いっぱいあるのは私が買ったからよ!」
「はいはい、んじゃ後で金払うわ」
「そういう問題じゃ⋯⋯、そう言えばアンタ何しに来たのよ」
「あ、忘れてた。工藤さん来てるよ、今母さんが相手してる。姉ちゃん、今日デートじゃないの?」
しばしの間があって、声にならない叫び声が姉の口から吐き出された。
椅子から立ち上がり頭のヘアバンドを勢いよく外し、上着に手をかけた所で姉は弟を振り返った。
「ソレあげるから、30分時間稼いで!」
「へーい」
弟がまだ部屋にいるのも構わずに、姉は上着を脱ぎ捨てた。
その様子を視界の端に捉えつつ、弟はスナックを口に放り込む。
「ん〜、やめられないとまらない〜♪」
さて、どうやって30分時間を稼ごうか。
取り敢えずは、このかっぱえびせんを一緒に食べて、先月買ったゲームでもしようかな。
俺の人差し指を握る小さな五本の指は、意外なほど力強く、そして温かかった。
それが原始反射で、赤ちゃんが生き残るため、成長するために必要なものだと言うのは後から知った。
母さんは高校卒業と同時に結婚して、その半年後に俺を産んだ。
計算が合わないのは、結婚前にお腹に俺がいたからなんだが、そこは母さんからしてみれば計算通りだったらしい。
母さんと俺の父さんは、歳の差が25歳もあった。
それもそのはずで、父さんはじいちゃんの幼馴染で、母さんのことは生まれた時から知っていた。
でも、母さんは小さい頃からずっと父さんのことが好きだったらしい。
小学校高学年の頃にはそれが家族や友達に対する好きではなく、恋愛のそれである事を自覚していたと言うのだから、随分と心の成長が早かったのだと思う。
じいちゃんやばあちゃんは随分懐いてるな、位にしか思っていなかったし、父さん本人も懐かれてるなぁとしか思っていなかったそうで、母さんが婚姻可能年齢になったその日、じいちゃん、ばあちゃん、そして父さんの前で、父さんに結婚を前提としたお付き合いを申込んだ時は、なかなかの修羅場だったと聞いた。
父さんも父さんでその年齢まで独身で、何人かとお付き合いはしたらしいけど結局結婚するまでには至らずじまいで、このまま独身でもいいかなとか考えていたらしい。
そんなこんなで色々とあったらしいけど、そこは母さんの粘り勝ち。
じいちゃんとばあちゃんから父さんがOKしたならと付き合う許可をもぎ取って、両親公認で父さんを口説き落としにかかった。
じいちゃんとばあちゃんも、父さんが堕ちる事はそうそうないだろうっていうのが本音で許可を出した。
でも、じいちゃんもばあちゃんも、そして父さんも甘かった。
相手は赤ん坊の頃から知っている子で、親子ほどの歳の差。
こんなオジサンよりも、学校の先輩や同級生とか、歳の近い気の合う相手と出逢えば目が覚めるだろう。
なんて、大人の曖昧な可能性に掛けた脆い防壁では、母さんの攻撃を防ぐ事はできなかった。
学生のうちに会社を立ち上げ、それなりの収益を出すほどに成長させた仕事のデキる男だった父さんは、母さんとの闘いにおいては初手から誤ったと言っていた。
本気の母さんは凄かったらしいが、俺にはまだ早いと、詳しいことは教えてくれなかった。
『気がついたら、愛してたんだよ』
最後に父さんと釣りに行った岸壁で父さんはそう呟いた。
静かに海を見つめるその横顔が、酷く幸せそうだったのを覚えている。
「お兄ちゃん?」
首を傾けて俺の顔を覗き込んでくる小さな女の子。
4年前、俺が15歳の時に母さんが産んだ、父親の違う妹。
父さんは、俺が6歳の時に交通事故に巻き込まれ、俺と母さんを残してあの世へ旅立った。
俺と釣りに行った3日後のことだった。
その日から母さんは忙しくするようになった。
まるで忙しくすることで父さんが居ないことを誤魔化すように。
そしてそんな母さんを支えてくれていたのが、妹の父親。
彼は父さんの会社の社員で、自分にもしもの事があったら、と生前父さんに頼まれていたらしい。
張り詰めていた母さんの顔が徐々に柔らかくなって、元に戻るまでに5年という時間がかかった。
それから更に2年経った頃、母さんから彼との再婚について相談された。
正直、複雑な気持ちだった。
けれど、母さんの人生は母さんのものだと思うし、それで母さんが幸せになれるなら父さんも喜ぶはず。
だから俺は母さんの背中を押した。
彼と俺の関係はやっぱり微妙で、2人で話し合って親子としてではなく、年の離れた友人として関係を築いていこうという事に落ち着いた。
その関係も徐々に板について、妹が生まれて、知らない人が見れば普通の家族にみえたかもしれない。
じいちゃんばあちゃんとも仲良くて、よく皆で買い物や旅行に行っていた。
でも本当に仲が良すぎて、…⋯皆で一緒に父さんに会いに行ってしまった。
「おじいちゃん、おばあちゃん、パパとママ、みんなにバイバイしようか」
「バイバイ?」
「うん、バイバイ」
「⋯⋯」
こくりと頷いた妹は、一人一人に挨拶をする。
おじいちゃん、またあそんでね、バイバイ
おばあちゃん、いっしょにねようね、バイバイ
パパ、ごほんよんでね、バイバイ
ママ、ホットケーキやろうね、バイバイ
「バイバイしたよ」
「うん、偉いね」
「うん。⋯お兄ちゃん、て」
「つなぐ?」
「⋯⋯うん」
妹は棺の一つ一つが閉じられていくのをじっと見つめていた。
普通じゃないことは、周囲の様子や雰囲気からわかっているんだと思う。
繋いだ手の温もりは、あの頃と変わらない。
ギュッと握られる力強さはあの頃よりも強くなっていた。
それでも、この手はまだまだ小さい。
「お兄ちゃんもバイバイ?」
小さい目にいっぱい涙を溜めて、妹は問う。
「バイバイしないよ。ずっと一緒にいるよ」
「ほんと?」
「本当、約束する」
しゃがんだ俺の首に、ぎゅっと抱きついた妹の背中を軽く2回、ぽんぽんと叩いてそのまま抱き上げる。
昔よく父さんにこうしてもらった事を不意に思い出した。
妹と二人、手を取り合って生きていきます。
だからどうか、皆で見守っていて下さい。
それと、父さんに伝えてください。
もっと一緒に釣りがしたかったって。
誰かと自分を比べ
劣等感に苛まれ
誰かに勝って
優越感に浸る
比べても意味が無いのに
勝っても何も変わらないのに
どうしてそんなに他人が気になるのか
比べるべきは
過去の自分
勝つべき相手は
理想の自分
人と比べずに
自分と比べ
人と競わずに
自分の理想と競え
今なら、そう言える
劣等感からくる被害妄想に取り憑かれ
優しい人達の手を弾き飛ばし
誤った優越感に浸っていた
幼すぎる精神を持つ
遠い過去の自分に
君が近くにいると、普通に呼吸ができない。
息を吸って吐く、ただそれだけなのに、それが今の俺には何よりも難しい。
おかしいな、つい昨日までは平気だったんだ。
いつものように軽口を叩いて、君にどつかれて2人で笑って。
なのになんで今俺はこんなにも、苦しいんだろう。
「どうしたの?」
出会った頃はショートだった君の髪は、今は肩よりも長くて。
さらりと溢れ顔にかかった横髪を耳に掛ける自然な動作。
少し首を傾けて、上目遣いで俺の顔を覗き込んでいる。
「な、なんでもない」
背の高い俺は、君の顔よりつむじを見ていることが多かった。
仕方がないよね、だって身長差30cmだし。
だからかな、気がつけなかった。
君がこんなに綺麗だったなんて。
「そう?具合悪いとかじゃない?」
「平気」
「ふぅん」
疑り深い君は、その後も暫く俺を観察していたけれど、納得したのかまた広場へ視線を移した。
俺は心の中で繰り返す、吸って〜吐いて〜、吸って〜吐いて〜。
あぁ、ヤバい、二酸化炭素以外の物を吐き出しそうだ。
クラスの仲の良いグループで、地元の祭りに行く計画を立てた。
集合場所は駅前広場。
人が多いだろうからと広場の西側にある花壇付近で、背の高い俺を目印にしようという事になった。
ついでだから、服装もみんなで揃えて浴衣にしようと。
それを母親に伝えたら、タンスの奥からじいちゃんの浴衣を出してきた。
サイズを確認して問題がなかったから、クリーニングに出して出来上がったのが今日の午前中。
時間的にはギリギリだった。
母曰く、もっと前から言ってくれれば縫ってあげたのに、だそうで。
てんやわんやで着付けをしてもらい、ここに着いたのが30分前だった。
「みんな、遅刻だね」
集合時間から既に5分経過。
LINEには、道が混んでて車が進まないとか、家出るのが遅くなったとか、途中別の友達に捕まったとか、財布忘れたから戻ってるとか色々メッセージが流れてる。
君が来たのは集合時間の15分前で、ロータリーに止まった車から降りてきた君を見つけた途端、俺の呼吸がおかしくなった。
そこには、学校で見ている君とは違う君がいた。
これってさ、そういうこと?
マジで?
自慢では無いが、俺はそこそこモテる。
告白された回数も両手では足りないくらいだ。
けれど、誰かと付き合った事は無かった。
みんなでワイワイしている方が楽しいし、誰か1人を好き、という感情がわからなかった。
だからこれまでずっと、誰とも付き合わなかった。
「...ねぇ」
「うん?」
「どうしたら、背高くなれる?」
「......どうって、俺はたぶん遺伝だし。うちはじいちゃんが背高くて、んで母さんも高くて、俺も高いけど、父さんと姉ちゃんは普通だよ」
「牛乳たくさん飲んだとかは?」
「俺、牛乳苦手。姉ちゃんは好きで毎日ガブガブ飲んでるけど」
「ご飯いっぱい食べるとか、よく寝るとか?」
「飯は普通だと思う、夜は結構夜更かししてるな」
「むぅぅ」
あ、可愛い、じゃなくて。
「背、高くなりたい?」
「う...まぁ、もう少し。でも半分諦めてる」
「女の子なら、ヒールの高い靴を履くとかできるし、気にする必要ないんじゃない?」
「そう?背、低くても気にしない?」
「ん、...まぁ、俺は気にしないけど」
低くても高くても、君は君だから。
というか、今日の髪型は、ちょっと刺さる。
ハーフアップして簪?でくるっと纏めて、髪の隙間から覗く項が白くて...。
あ、また呼吸が、吸って〜吐いて〜、吸って〜吐いて〜。
「じゃ...じゃぁ、あのっ、私と付き合ってください!」
「へ?」
「あ、うぅ、えと、そ、その、あのね、い、今まで全部、告白断ってたの知ってる」
「あ、うん」
今俺から見えるのは、俯いた君のつむじだけ。
それでも、君の顔が真っ赤になっていることが手に取るようにわかる。
声も、少し震えてる。
「だから、その、誰とも付き合う気がないのかもしれないけど、えっと、本当は言わないつもりだったんだけど、つい、と言うか、あー、何で言っちゃったんだろう、私......浮かれ過ぎたぁ」
だんだん声が小さくなって、心做しか、君の身長も縮んでしまったように思えて。
そんな君がすごく可愛くて、ギュってしたいとか思っている自分の理性を総動員して呼吸を整える。
吸って〜吐いて〜、吸って〜吐いて〜。
「それは、俺のことが好きってこと?」
「………」
君の頭が上下に揺れる。
それと同時に、君は両手で顔を覆った。
「ずっと、ずっと好きだったの。1年の頃から。でも、誰とも付き合う気がないみたいだったし、その、今の関係も壊したくなくて、告白しないでこのままでいいかなって思ってたんだけど」
「うん」
「でも、これまでずっと告白断ってたとしても、この先誰かと付き合うかもしれないって考えると、何か、嫌で。それに今日すごい、カッコ良くて、何か、なんて言うか......、うぅ、ゴメン、やっぱり聞かなかったことにして、忘れて...」
「んーでも、聞いちゃったし」
「その...」
「それに俺、今めちゃくちゃ嬉しいんだけど、忘れないとダメ?」
「え?」
ガバッとあげた君の顔は、とても真っ赤で、それでいて可愛くて。
目の端に溜まった涙を、そっと指先で拭って。
あー、ごめん、今気付いた。
俺って好きな子はチョット虐めたくなる性格らしい。
周りに聞こえないように、30cmの身長差を腰を曲げることで縮めて、君の耳元でそっと呟く。
「俺と付き合ってくれないの?」
「へっ?」
目をパチパチさせて、俺の発した言葉を君がしっかりと理解するまでの8秒間。
俺は意識して呼吸をする。
めちゃくちゃ心臓が高鳴って、早くなる呼吸を制御して、余裕があるフリをする。
「どうすれば付き合ってくれる?それともやっぱり、忘れないとダメ?」
「ふぇっ?」
そっと、君の頬に手を伸ばすと、君は更に赤くなる。
あーヤバい、今すぐキスしちゃいたい。
「どうする?忘れた方がいい?」
「わっ...」
「わ?」
「忘れない、で...いい、デス...」
「了解」
このまま2人で消えてしまいたいけど、そうもいかない。
視界の端にきょろきょろと周りを見ている4人を見つけて、姿勢を正した。
頭の上に『!』を光らせる勢いで、4人が俺を発見しこちらへ走ってくる。
吸って〜吐いて〜、吸って〜吐いて〜、さあ、君も一緒に呼吸を整えて、これまで仲のいいクラスメイトだった君と俺との関係が、新しくなったことを一緒に彼らに報告しようか。