俺の人差し指を握る小さな五本の指は、意外なほど力強く、そして温かかった。
それが原始反射で、赤ちゃんが生き残るため、成長するために必要なものだと言うのは後から知った。
母さんは高校卒業と同時に結婚して、その半年後に俺を産んだ。
計算が合わないのは、結婚前にお腹に俺がいたからなんだが、そこは母さんからしてみれば計算通りだったらしい。
母さんと俺の父さんは、歳の差が25歳もあった。
それもそのはずで、父さんはじいちゃんの幼馴染で、母さんのことは生まれた時から知っていた。
でも、母さんは小さい頃からずっと父さんのことが好きだったらしい。
小学校高学年の頃にはそれが家族や友達に対する好きではなく、恋愛のそれである事を自覚していたと言うのだから、随分と心の成長が早かったのだと思う。
じいちゃんやばあちゃんは随分懐いてるな、位にしか思っていなかったし、父さん本人も懐かれてるなぁとしか思っていなかったそうで、母さんが婚姻可能年齢になったその日、じいちゃん、ばあちゃん、そして父さんの前で、父さんに結婚を前提としたお付き合いを申込んだ時は、なかなかの修羅場だったと聞いた。
父さんも父さんでその年齢まで独身で、何人かとお付き合いはしたらしいけど結局結婚するまでには至らずじまいで、このまま独身でもいいかなとか考えていたらしい。
そんなこんなで色々とあったらしいけど、そこは母さんの粘り勝ち。
じいちゃんとばあちゃんから父さんがOKしたならと付き合う許可をもぎ取って、両親公認で父さんを口説き落としにかかった。
じいちゃんとばあちゃんも、父さんが堕ちる事はそうそうないだろうっていうのが本音で許可を出した。
でも、じいちゃんもばあちゃんも、そして父さんも甘かった。
相手は赤ん坊の頃から知っている子で、親子ほどの歳の差。
こんなオジサンよりも、学校の先輩や同級生とか、歳の近い気の合う相手と出逢えば目が覚めるだろう。
なんて、大人の曖昧な可能性に掛けた脆い防壁では、母さんの攻撃を防ぐ事はできなかった。
学生のうちに会社を立ち上げ、それなりの収益を出すほどに成長させた仕事のデキる男だった父さんは、母さんとの闘いにおいては初手から誤ったと言っていた。
本気の母さんは凄かったらしいが、俺にはまだ早いと、詳しいことは教えてくれなかった。
『気がついたら、愛してたんだよ』
最後に父さんと釣りに行った岸壁で父さんはそう呟いた。
静かに海を見つめるその横顔が、酷く幸せそうだったのを覚えている。
「お兄ちゃん?」
首を傾けて俺の顔を覗き込んでくる小さな女の子。
4年前、俺が15歳の時に母さんが産んだ、父親の違う妹。
父さんは、俺が6歳の時に交通事故に巻き込まれ、俺と母さんを残してあの世へ旅立った。
俺と釣りに行った3日後のことだった。
その日から母さんは忙しくするようになった。
まるで忙しくすることで父さんが居ないことを誤魔化すように。
そしてそんな母さんを支えてくれていたのが、妹の父親。
彼は父さんの会社の社員で、自分にもしもの事があったら、と生前父さんに頼まれていたらしい。
張り詰めていた母さんの顔が徐々に柔らかくなって、元に戻るまでに5年という時間がかかった。
それから更に2年経った頃、母さんから彼との再婚について相談された。
正直、複雑な気持ちだった。
けれど、母さんの人生は母さんのものだと思うし、それで母さんが幸せになれるなら父さんも喜ぶはず。
だから俺は母さんの背中を押した。
彼と俺の関係はやっぱり微妙で、2人で話し合って親子としてではなく、年の離れた友人として関係を築いていこうという事に落ち着いた。
その関係も徐々に板について、妹が生まれて、知らない人が見れば普通の家族にみえたかもしれない。
じいちゃんばあちゃんとも仲良くて、よく皆で買い物や旅行に行っていた。
でも本当に仲が良すぎて、…⋯皆で一緒に父さんに会いに行ってしまった。
「おじいちゃん、おばあちゃん、パパとママ、みんなにバイバイしようか」
「バイバイ?」
「うん、バイバイ」
「⋯⋯」
こくりと頷いた妹は、一人一人に挨拶をする。
おじいちゃん、またあそんでね、バイバイ
おばあちゃん、いっしょにねようね、バイバイ
パパ、ごほんよんでね、バイバイ
ママ、ホットケーキやろうね、バイバイ
「バイバイしたよ」
「うん、偉いね」
「うん。⋯お兄ちゃん、て」
「つなぐ?」
「⋯⋯うん」
妹は棺の一つ一つが閉じられていくのをじっと見つめていた。
普通じゃないことは、周囲の様子や雰囲気からわかっているんだと思う。
繋いだ手の温もりは、あの頃と変わらない。
ギュッと握られる力強さはあの頃よりも強くなっていた。
それでも、この手はまだまだ小さい。
「お兄ちゃんもバイバイ?」
小さい目にいっぱい涙を溜めて、妹は問う。
「バイバイしないよ。ずっと一緒にいるよ」
「ほんと?」
「本当、約束する」
しゃがんだ俺の首に、ぎゅっと抱きついた妹の背中を軽く2回、ぽんぽんと叩いてそのまま抱き上げる。
昔よく父さんにこうしてもらった事を不意に思い出した。
妹と二人、手を取り合って生きていきます。
だからどうか、皆で見守っていて下さい。
それと、父さんに伝えてください。
もっと一緒に釣りがしたかったって。
7/15/2024, 4:24:47 AM