旅路の果てに
こんなはずじゃなかった。旅路の果てで一人、そんなことを考える。
目の前に広がるのは黒い世界と見えない壁。壁の向こうは光さえ不確かなのに不定期に何かがチカチカと瞬いて、「無」に思考を支配されて不安な気持ちが押し寄せる。
5億年もあればここに辿り着くはずだった。実際は何年かかった? 計測機器が壊れてしまった。想定以上の時間がかかったことはほぼ確実だ。
僕は宇宙探索のために作られた。思考力を持ちながら寿命のない存在だ。この数億年で何度狂いそうになったか分からない。
「無」の中にまばらに重い物体が転がっている、それが宇宙だ。重い星や硬い氷などにぶつからないよう気を張りながら、気が遠くなる時間をかけて宇宙の果てを目指さなければならない。それが僕の使命だから。
ようやく辿り着いた。長い旅だった。僕を生み出した人々の悲願であり、僕自身の悲願でもあった。それなのになんでこんな気持ちになるんだろう。宇宙の向こう側を見ても、喜びよりも絶望が襲ってくるのだ。
あぁ、このことを僕の産みの親たちに知らせなければならない。
一体何年かかる? こうして悩んでいる間にも僕は故郷から離れていく。宇宙は膨張を続けているから、それに合わせて前に進み続けなければならない。
少なくとも知らせが届くまでに5億年……いや、ここに至るまでにそれ以上の時間がかかったことと、今も宇宙が膨張し続けていることを加味すれば、その何倍もの時間がかかるかもしれない。
産みの親本人はもう生きていないだろう。その子孫でさえ今もいるか怪しい。そもそも知らせが届くまで僕の故郷の星は残っているのか?
ともかく、知らせは出そう。悩んでいる時間はない。
せめて、僕の故郷じゃなくても、どこか他の星に宇宙人がいて、その人たちが僕の知らせを受け取ってくれればいい。何億年の時間がかかっても構わない。
僕は前進を続ける。宇宙の果てを追い続ける。やめられればよかった。寿命がない僕は、真の旅路の果てには辿り着けない。それが僕の使命だから。
あなたに届けたい
難しいな。昨日「曲なんかに出てくる『あなた』に当てはまる人はいない。毎回『自分』に置き換えて聞いている。」と書いたばかりなんだけど。
「作家は経験したことしか書けない」という言葉があるそうだ。私は学校等で習った知識を「経験」として活用しているけれど、人間関係についてはどうも勉強では補えない。
早い話が、今回のお題から何も思いつかない。ボトルメールを軸にして何か書いてみようと思ったが、筆が進まない。少し疲れていて思考力が落ちているのも良くないのかもしれない。
投稿しないという選択肢もあったけれど、内容はともあれうまいこと書いて投稿のリズムだけ崩さないようにしようと思う。せっかく昨日数日ぶりに投稿したからね。
さて、私にとっての「あなた」は「自分」だ。じゃあ届けたいものは何だろう。直感的には「私の気持ち」だと思った。
それではこう考えようか。暗い海の上で、息をしているのは私と「自分」だけである。私は私の気持ちを手紙に綴って海に流した。果たして「自分」はこれを読んでくれるだろうか。
読んでくれないだろうな。
「あなたに届けたい」と希うのは、現状それが届いていないからだ。本来私と「自分」は同一と言ってもいいほど近い存在だが、そんなに近くからメールを出しても届かないというのは、多分「自分」に受け取る意思がないのだろう。あるいは本当に気付いていないのだろうか。
いずれにせよ、簡単には読んでもらえない。どうしたら「自分」に気持ちを届けることができるだろうか。
大きな声に出して伝えるという選択肢がある。これなら相手にその気がなくても受け取ってもらうことができる。
今よりも近くに行くという方法もある。顔をつき合わせて、2人でコソコソ話だってできるかもしれない。
あぁそうか、「あなたに届けたい」と思うなら、手紙を介さず声で伝えてしまうのがいいのか。
私はこれまで手紙を書いて満足していた気がする。届いていなかったんだな。
「自分」と声で対話するために取っている数少ない手段のひとつがこういった執筆であるように思う。だとすれば、私にとって創作の時間はやはりこの上なく大事なものだ。――ということは、私にとって創作とは「『自分』に届けたい」ものなのか?
……もう期限過ぎてるのでここらで切り上げます。
私は自分のために創作をすればいいのかな。うーん。
I LOVE...
何か短編を書こうと試みているのだけれど、最近何も思いつけていない。今日はもうマイルールを無視して日記を書こうと思う。このまま何も投稿しないでいたら、いずれフェードアウトしてしまいそうだ。
3日前のお題は「ミッドナイト」だったか。丁度その日の夜満月だったそうで、満月って日付が変わる頃に南中する(一番高いところに上がる)から、それをテーマに書こうと思った。でもそれ以上思いつかなかった。
その次の日は「優しさ」だっけ。昔下書きした短編で「子どもの純粋な好奇心を大人が優しさと決めつけて、段々純粋な心が失われていく」というやつがあったので清書しようと思った。(改めて見るとなかなかな内容だな。)結局手を付けずに終わった。
昨日はたしか「街へ」だった。これについては本当に何も思いついていないし、思考を放棄していた。もし書くとしたら、新社会人の独白みたいな内容になっていたと思う。
そして今日のテーマは、LOVEか。正確には「I LOVE...」だけど。
自分にとっての「愛」についてはよく悩む。
純粋なLOVEを向ける相手はとっさには思いつかない。曲なんかに出てくる「あなた」に当てはまる人はいない。毎回「自分」に置き換えて聞いている。
家族との仲は良いし、よく遊ぶ友達もいるけれど、「あなた」ではない。恋愛的に好きな人はそもそもいない。
自分自身にだって純粋なLOVEが向いているわけではない。そこにはHATEも含まれている。人以外にも同じで、たとえ好きなものでもその「好き」は純粋なLOVEではない。
私は愛情を持てない人間、というわけではない。むしろ愛は深いほうだと思う。ただ常にそこにHATEもついてくるというだけで。
もし今日のテーマ「I LOVE...」が「I LOVEに続く言葉を考えよ」ということではなくて、「何を続ければいいか分からなくなった様子」を示しているなら私にぴったりだと思う。愛してはいるけど様々なネガティブな感情も同時に含まれていて、「I LOVE YOU.」とはとても言えない。
他人の表現物ですが、お題を見たときからキタニタツヤさんの「I DO NOT LOVE YOU.」という楽曲が頭から離れないので少し触れます。引用にとどめればきっと問題ないでしょう。
歌詞に「I DO NOT LOVE YOU. I DO NOT HATE YOU, TOO.」と言う部分がある。多分私が持つ「愛」はこれに近い。
ここまでの流れも踏まえると「I LOVE YOU, BUT I HATE YOU, TOO.」でも良さそうだけど、それでは少し違うのだ。この辺は感覚的なことなので説明が難しい。「DO NOT」に込められた葛藤や孤独感、劣等感が大事なのかなと思う。逆に言えば、葛藤や孤独感、劣等感こそが私にとっての「愛」の正体かもしれない。
(ちなみに私はキタニさんの曲をよく聞くし、「I DO NOT LOVE YOU.」のような曲を書いてくれたという点で人間としてもある程度信用しているし、キタニさんの変化や行く末をいちファンとして最後まで見届けたいと思っているけれど、それでも彼でさえ「あなた」ではない。)
もう一つ今日のお題を見て思ったことを書いて終わりにする。
このような日記(エッセイ?)や小説も含めて、あらゆる表現物はLOVEの表出である、と思った。
本来ならLOVEはポジティブな意味だけを持つのだろうが、私の感覚ではHATE含むあらゆる感情はLOVEから産まれているように思う。先述した葛藤や孤独感、劣等感もそうだ。
私たちは自分たちのグチャグチャした心、もといLOVEを無理やり切り取って作品を完成させている。そんな気がしたのだ。
以上が私のLOVEに対する雑感であり、私の愛そのものである。
私の愛を読んでくれてありがとう。I LOVE...
安心と不安
「安心と不安」は、天界独自の諺(ことわざ)です。
昔々、ある神様は地上の生物から不安を取り除いてあげようとしました。結果、生物たちは死や危険に対する不安感を失くし、積極的に滅亡に向かおうとしました。
見かねた神様は生物に不安を戻して、代わりに安心を取り除きました。すると生物たちは常に落ち着かなくなって、食事を取らず子も成さず、やはり滅びに向かいました。
そこで神様は、生物から安心と不安の両方を取り除きました。すると不思議なことに、彼らは再び安心も不安も抱くようになりました。そして生物は安定して繁栄を続けました。
安心が崩れれば不安になり、不安が無くなると安心する。両者は対を成すものでありながら、共存してこそ安定することができたのです。
このことから、「たとえ善意であっても安定状態に手を加えると良いことにならない」という例えに用いられます。最近は「対立しているように見えるものも共存させておくのが最善である」という意味でも使われるようになりました。
いずれにしても、優秀な神様になるために最も大事な考え方の一つです。頭の片隅に入れて、何か決断をする際はこの言葉を思い出してください。
逆光
皆既日食の日、世界は朱に染まる。
「始まる!」
子どもたちが一斉に上を見上げる。太陽が星の後ろ側に隠れていき、心なしか辺りが暗くなる。ワァッと大きな歓声が沸き起こった。
「すごいすごい! 太陽が小さくなってる!」
「すごいでしょう。これを『日食』と呼びます」
先生は得意げに教えるが、子どもたちのほとんどは空で巻き起こる天体ショーに夢中で聞いていない。煌々と輝く太陽が大きな闇に飲まれていく。子どもたちからすればとても不思議で、魅力的な現象なのだろう。
先生は嬉しいため息をつきながら、一言だけ説明を加えた。
「太陽が食べられるという意味なんですよ」
「――太陽、食べられちゃうの?」
「え」
自身も太陽の行く末を見守っていた先生は、驚いて下に目をやった。太陽から注意を逸らさせるつもりはなかったのだが、一人の心やさしい子が泣きそうな目で先生を見つめている。
なんていい子なのだろう、でも大丈夫だから、ほら、上を見てご覧。
そう言おうとしたとき、辺りが急に真っ暗になった。太陽が完全に隠れたのだ。皆既日食である。
さあ、今が良いところだ! 見逃すわけにはいかない。改めて子どもに上を向いてもらおうとするが、今度はギャアッという大きな声に遮られた。それは歓声というよりは悲鳴のようだった。
「血だ!」
誰かの声がやけに大きく響く。つい先程まで揃って上を見上げていた子どもたちは今、皆自分たちの足元を見て怯えきっていた。
たしかに地面は真っ赤に染まっていて、まるで血の海のようだった。空はすっかり真っ暗で、私たちを飲み込みそうな大きな黒い星が真上に鎮座し、赤い後光を放っている。
怖がることはない。空の大きな星が黒く見えるのは完全に逆光になっているせいで、星の周囲から漏れ出る赤い光がその証拠だ。私たちの地面の赤色はその光が映っているためであって、決して血ではない。
……と先生は知っているが、それをどう説明すれば良いのか考えあぐねた。
そうこうするうちに赤い光は金色の日光へと変化し、地面は赤色から黒色に、そしていつもの灰色へと戻っていった。気づけば太陽はいつもの丸に戻っていたが、子どもたちの中には泣く子もいて太陽に構っている暇はない。3年に一度の貴重なイベントは大惨事に終わってしまった。
次は伝え方を気をつけよう。先生は深く反省したのだった。
『月から見た日食。またの名を月食』