こんな夢を見た
僕が見たのは例えばこんな『夢』だった。
みんなのスーパーヒーローになった。わるものをやっつけた。
かけっこで1番になった。日本で1位の天才だった。
好きな人と一緒にいた。大切な人が隣にいた。
いてほしかった。
世界を変える存在になりたかった。誰かにとっての一番になりたかった。
空は飛べなかった。魔法は使えなかった。僕は特別じゃなかった。運命もなかった。気付けば一人だった。
『夢』を見なくなった。
ただ眠って起きる、その間の時間は真っ黒で、起きている時間だって頭の中は真っ黒で。
いつからこうなのか、思い出そうとしても真っ黒で、見えるのは結局遠い昔の夢ばかりだ。
今日はもう眠ろう。真っ黒な時間に落ちよう。
眠ることを「夢を結ぶ」とも言うそうで。結ぼうにも、頭の中に黒色しかないのなら、どうしたって見える夢は黒色だけれど。
それでも結ばれる『夢』が少しでも残ってくれているのなら、その結び目は黒の中で彩りとなるだろうか。
黒色の中に沈みながら、僕は『夢』の残り香がゆったりと結ばれていくのを眺めている。
きっと、そんな夢を見る。
おやすみなさい。
タイムマシーン
「タイムマシーンがあったらどの時代に行きたい?」「時間を移動できるなら、過去と未来のどちらに行く?」
そのような問いを娯楽として楽しんでいた頃は、まさかタイムマシーンが現実のものとなるとは思われていなかっただろう。
3072年、国や家族という概念がなくなり、人々の生活様式は大きな変貌を遂げた。かつて温帯と呼ばれた地域においても今や夏になれば最高気温が60℃を超える日も珍しくなく、不要な外出は禁じられている。極高緯度の地域を除けば人類は屋内で生活するほかなかった。各々の体は現実世界とデータ世界の2つに並列して存在しており、活動の拠点となるのはほとんどがデータ世界だった。
タイムマシーンが技術的に可能となり、人工動物を用いた治験を経て人間による臨床実験が認可されたのは、この年の夏のことだった。
タイムマシーンのニュースに、人々は関心を抱かなかった。データの世界においては既に時間を行き来することができていた。数分立っているだけで死にかねない外の現実世界に興味はなかった。好き好んで現実世界に浸り、実体としてのタイムマシーンを作り上げた科学者のグループに嫌悪感を抱く者さえいた。嫌悪とまでいかなくとも、ほとんどの人は彼らに対して排他的だった。臨床実験のための公募が行われたが、応募者はひと月待ってもゼロのままだった。
夏と冬との変わり目に、科学者たちはこのように話した。
「私たちは互いの力を持ち寄り、高い理想を以てこの機械を完成させました。これは人類の夢と希望が詰まったものであり、そうであるべきでした。
しかし現実はそうではありませんでした。私たちは悲しい。およそ1100年前の記録を、皆様は読んだことがあるでしょうか? 私たち人類は時間旅行を夢見ていました。1000年以上の時を経て、人類の夢は叶ったのです! この機械が完成したとき、私たちは心の底から喜びました。しかし、それは私たちだけだった。人類の夢は変遷し、今や時間旅行を夢見る者はいなくなってしまった。
本当に悲しく思います。
『タイムマシーンがあったなら』、皆様はそのようなことを考えたことはありますか? かつては一般に問われていた問いでした。私たちも日夜考えました。本当に、たくさん考えました。
自分の子供の頃に戻るとか、未来を覗き見るとか、本当にたくさん考えました。皆様には意外かもしれませんが、場合によっては、過去に戻ってタイムマシーンの開発をやめさせるつもりでした。本当に、本気で考えていました。私たちはこの技術が取り合いになって、争いの火種になり得ると、本気で考えていたのです。
実際は違った。皆様ご存知のとおりです。本当に、悲しく思っております。
私たちはこの技術を望む人たちに届けたい。私たちは皆様に喜んでもらうために、寝る間も惜しんでこの機械を開発したのです。
申し訳なく思っております。しかし、これは人類の、そして勝手ながら私たちの望みなのです。
『タイムマシーンがあったなら』、これはありえないと考えていた選択肢でした。私たちは望む人たちに届けます。1000年前の人々へ、私たちが希望となる時代へ、私たちは時を渡ります。
皆様さようなら。ありがとう」
この声明が出された後研究所の捜索が行われたが、そこには誰も残っておらず、タイムマシーンもなくなっていた。1000年前の記録にもそれらしき記述は発見されていない。彼らの行方は不明のままである。
海の底
――人魚の肉を食らうと不老不死になる。まことしやかに囁かれる噂だ。馬鹿馬鹿しい話だと誰かが言う。これは真に不老不死になるもう一つの噂話――
生命が誕生したのは、深い深い海の底だった。深海にある高熱の水が吹き出すところが生命の起源であると言われている。
そんな「生」の象徴であるこの深海で、一人の冷たくなった人間が「死」を迎えようとしていた。
「ちょっとあんた!」
甲高い声が海水を震わせる。大きく立派な尾ビレが水を掻き、大きな体を推して進む。死にかけの人間はその声に反応することなくゆっくり、ゆっくりと沈んでいった。
「しっかりしなさいな! あんた、分かるかい?」
沈んでいく人間を優しく抱きかかえたのは、上半身が人間、下半身が魚の姿をした正真正銘の人魚である。
「初めてだね、こんなに綺麗な体が降ってくるのは」
人魚は人間が息をしていないのを確認して、より深い海の底へと連れていった。人間の体は硬直し、空気のない虚空に向かって口がポカンと開いている。
「心配なさんな。ここは生の象徴の地。きっとあんたにも力をくださるはずさ」
人間は全く反応を示さなかった。人魚は人間に絶えず声をかけ続け、暗く重い海の底へとぐんぐん泳いだ。やがて、ほんの少し海水の温度が高くなる。
その瞬間、人間の足がビクンと大きく跳ねた。両足を揃えて水を蹴るように暴れ始める。人魚は必死に人間を抱きかかえてほくそ笑んだ。
「始まったね」
人間は大きく暴れに暴れ、数分間暴れた後に急に覚醒したように目を見開き、動きを止めた。
「あんた、分かるかい?」
「は……?」
「お、良かった。泳げそうか?」
人間はおそるおそる足を動かした。両足がくっついて離れず、バタ足ができそうもない。仕方なくドルフィンキックをしてみると「上手上手!」と人魚は嬉しそうに笑い声を上げた。
「まだ一人じゃ泳げないか。引っ張るから着いてきな」
わけも分からず人魚に手を引かれ、人間は黒い大海の中を泳ぎ出した。それは悍ましくも神秘的で、真冬の夜空のような海だった。
それから十日もすると、かつて人間だった男の足は完全にくっついて魚のヒレも生えてきた。人魚の助けがなくても自分である程度泳げるようになった。
「慣れてきたな。飲み込みが早い。いいことだ」
「……うん」
「もう少し上に上がってみるか」
人魚はケラケラと笑い、男を誘導する。男は不貞腐れたように頬を膨らませながらも素直に人魚に着いていった。
「俺、人魚になるの?」
「おぉ、そうだ。人魚の話、知ってんのかい。なら話は早いね」
「ファンタジー世界じゃあるまいし」
「ふぁんたじい? それは分からないが、ほら、あんたの足を見てみな。それは人魚の足だろう」
「どうなってんだよ」
男は夢の中にいるような浮遊感で、まだ現状を飲み込めてはいなかった。やがて海の中に可視光が届き、人魚の美しい鱗が輝いて見えた。かと思えばすぐに水面がやってきて、2人は大海の中心で水の上に顔を出した。気分が悪くなるくらいの晴天で、水面の光が反射して目に眩しい。
「久しぶりの空気だ! どうだい、気分は」
「……うん」
「うんと言うだけでは分からないよ。どうなんだい」
「……なんで俺生きてんだろう、って思う」
水の中とは声の通り方が違う。互いの声がカラカラと聞こえる。眩しい日差しを煙たがるような男に対して、人魚はキラキラと楽しそうに笑顔を浮かべていた。
「はぁ! さてはあんた、死にたがりか。物好きだね」
「別に、好きでやってるわけじゃない」
「いやいや、貶すつもりはないんだ。あたしもそうだったさ。あたしの命で村が助かるって言うんだからさ、自ら海に沈んでやったね」
「はぁ……? 何それ。いつの時代?」
「さぁ、いつだろうね。あんたからしてみれば」
人魚は笑顔を崩さないまま、郷愁に浸るようにどこか遠くを見つめた。男はふと恐ろしくなった。立つ毛もないのに全身が鳥肌になるような感覚だった。
「ねぇ、あの……あなた、何歳ですか」
「なんだ、そんなつまらんことを知りたいのかい? 悪いけど、もう数えてないよ」
「あの……あの、俺、死にたかったんですけど」
「あぁ、そりゃ御生憎様だね。あんたもう死ねないよ。あたしもね」
人魚は美しく微笑んだ。眩しい光が反射して、男は目を逸らしたくなった。
「ほら、不老不死ってやつさ。いや、一度死んでるから不死ではないか」
かつて無から生命を生み出した深い海の底は、今や降りてきた生命を蘇らせ、無限の命を与えている。
人魚となった2人は、つがいの人魚として世界各地で都市伝説となっている。あるときは水面に2人で漂っており、あるときは肉を食らおうとした人間に「馬鹿馬鹿しい」と吐き捨て、またあるときは海底の調査の途中で目撃される。
という噂話だ。