玄関の鍵が開く音に身を強張らせる。一挙一動、相手の都合のいいように振る舞う。声音や表情を窺って、自分の心と相手の機嫌を天秤にかける。
そうやって気を張り続けることのない生活を求めるのは、全部ないものねだりなんでしょうか。
毎晩怯え続けなくてはならないことに、ほとほと疲れました。こわいなあと呟いてしまわないように、どこか遠くを見つめ続ける日々です。
「上京」という言葉に、希望を見出して生きています。頑張って、頑張って、どうにかここまで漕ぎつけた。あと1週間で、2度とここで暮らさなくていい。ようやく本当の社会的自立へと、一歩踏み出せる。それがどれだけ安定剤となるのか。きっとわからないでしょう。
平穏な暮らしをください。心の安寧をください。そう神様に祈る。求めてはいけないものだっただろうか。
そんなはずはない。だから、あと少し。
大丈夫。今の自分には、ないものだけれど、絶対に手にいれるから。
元気?今日は朝から雨が降ってるよ。見えてる?
君の住んでるところは、ずっと晴れているのかい?それとも、もうそんな概念自体、存在しないのかな。
君の顔を最後に見たあの日は、ほんとにすごい雨だった。君との別れが延びるかもしれないなんて、見せかけの希望が頭をよぎったけれど、そんなことはなかった。額縁に収まったいつかの君は笑っていて、同じ空間に生きていたはずの君は澄ました顔で目を閉じていて、思わず蹴っ飛ばしたくなったよ。
ざーざーしとしと、うるさかった。僕の涙が流れない分、雨はずっと降り続いた。
…ねえ、夕方には止むらしいよ。虹が出たらいいな。そしてそれが、君からも見えたらいいな。
あれ?おかしいな。なんか、雨で溺れちゃったみたいに視界がぼやけてる。頬が濡れてべたべたするよ。
君にあげようと思ってた花束に、僕から溢れた雨粒が落ちちゃった。花びらに雫、綺麗だよ。
ごめんね、挨拶しに行くの遅れちゃって。今から行くから。
傘は、もうささないよ。
僕が関わりたいと思う人たちは、どうでもいいと思えない人たちは、そりゃ皆、好きだよ。だけどね、どうしても、あの人だけは違うんだよ。
世界で一番、大好きだと思ってしまうんだよ。
だけど、願う愛の形は、他の人と一緒なんだ。幸せでいてほしい。ただそれだけ。僕はそれを、見ていたいだけ。
そりゃ、思ったよ。僕があの人を幸せにできたら、って。だけど、あの人はもう十分幸せそうで、じゃなくてももう十分1人で立ってて、僕はあの人と同じ世界でたまたま生きている(だけかもしれない)というひとりとしてしか、たぶんあの人を幸せにできない。いや、もうそれで十分なんだけどね。
僕自身があの人を特別に思う気持ちは、ただ単に愛なんだ。僕にとって特別なだけなんだよ。
いいんだな、僕はこれでいいと、本当にそう思ってるんだ。
だけどね、生きててほしい。曲がりなりにも、僕はかなり深くあの人を愛してる。そんな人、また会いたいなって思うに決まってる。また会いたいじゃないか。
だからさ、誰にも死ぬなんて言って欲しかないよ。躊躇うってことはさ、躊躇うくらいには人の中で生きてきたんでしょう。なら、あの人を想う僕みたいに、あなたを想ってる人、いたっておかしくないんだよ。それが、あなたが生きている、そして生きていた、証拠品だよ。一ミリでも大切に思われてるって思うなら、そう思ってる人たちをあまり傷つけたくないって、思うなら、どうか、その人たちの世界から消えないで。ありきたりな人たちの中から、ありきたりなひとりが消えることは、僕にとってはありきたりな出来事じゃないんだと思う。
これを読んでくれた人は、もう僕にとってはどうでもいい人じゃないからさ。ありがとう。
ところでさ、僕ごなんでやまめって名前にしたかっていうとね、あの人が僕のシャツにプリントされてたやまめを見て、「やーまーめ。」って読み上げたことが、なんとなーく忘れられないからなんだ。自分の存在って、思っても見ないところで生きてたりするよね。
詭弁かな。諭してるみたいだね。そんなつもりはないんだけどさ。
ほんと、バカみたいだと思ってるよ。あなたに届く訳ないのにさ。それでも心の中で話し続ける。無駄な時間、だとは思わないからさ。
あなたからもらったどうでもいいメモ、あなたがくれた些細な日常、ささやかな言葉、全部全部捨てられないんだ。
卒業式の後、初めてあなたを抱きしめたよね。交際禁止の3年間で、私が育んだのは、健やかで温かな、恋なんかどうでもよくなるくらいの、物語の世界をいくつもつくりあげてしまうくらいの、大きな愛だった。
あなたを抱きしめた時、ただ安心が私を包んだ。やっと、私にもこの資格がある。愛を以てあなたを抱きしめることができる。ようやく、ここまで歩いてきたんだ。
あなたがいることで、こんなにエネルギーを費やしたおかげで、あんなに美しい物語が書けるのなら、私はバカでもいい。バカみたいだと笑われてもいいんだ。
知らないでしょう、私がどれだけ幸せだったか。あなたのおかげで、あなたがいたから、それを何度繰り返してきたのか。
もう足踏みしない。あなたが生きていると、バカみたいにそう信じるよ。
だから、さようなら。そしてまた会おう。
泣かないよ、心だって泣いてはないしさ。
ただね、それでもね、いつか寂しくなるんだろうね。
信じてるから、寂しいなんて思えない。いつかまた会うって、あなたは明日も生きているって、そう信じている。
去り際にあなたを抱きしめた。あなたは柔らかく私を抱きしめ返した。
どうか、消えないで。なんて望めやしない。実感もないし。だってここにあなたの身体があるのを、今身をもって知ったから。疑いようがないほどに。
でもね、向かいのホームのベンチに座るあなたが、早く目をそらせって言ってるみたいに儚く笑ってるんだ。泡みたいに、いつパチンと消えちゃうかわからない。
あーあって目を閉じた。
泣かないから、涙だけは見逃してね。