世界の終わりに君と
〈世界のみそ漬け〉屋さんひらくわ
最悪
「今日はさいあくな日だったよぉ。」
珍しく父が僕の習い事のお迎えに来てくれた時に、僕は父に言った。
僕は父が苦手だった。今よりはまだマシだったと思うけど、それでも久しぶりに話す父との会話にとんでもなく戸惑っていた。
その日は確かに「さいあくな日」だった。
少し寝坊したし、先生に挨拶できなかったし、ともだちに悪口を言われたし、みんなの前で褒められたし、今何話せば良いのか分からないし。
少し小走りになりながら、お粗末な脳みそをフル回転させ、話す話題について沢山考えていた。
沈黙が気まずい。だから少しだけ、最近覚えた言葉を使いたくなってしまった。周りに合わせたくなったのだろう。
「お前、最悪なんて言葉を使っているのか。そんな言葉、軽々しく使うんじゃない。」
うん、知ってる。
最悪なんて、言ったこともなかった。軽々しく言える言葉じゃないと思っていた。
でも、普通になりたかった。お父さんに、普通だと思われたかった。
その後なんて言われたかは覚えてないけど、どうせいつもの口癖が飛んできたのだろう。
俺はこの最悪な日を、ずっと忘れない。
失恋
え?私の失恋の話が聞きたい…?
…しょうがないなぁ!でも、面白くないと思うよ。
恋を自覚したのは、小学生ぐらいからかな。ホントはもっと前からだったかもしれないけど。
込み上げるこの気持ちの正体に気がつくまで、そんなに時間は掛からなかったことだけは確かかな?
大好きだった。最初から兄弟だったんじゃないかなって思うぐらいには、私は〈君〉と一体化してた。すべてに共感した。すべてが美しかった。ありのままの〈君〉が好きで。尊い〈君〉が好きで。
別に天使がそう仕向けた訳ではなく、ヒトは何かを愛する運命で。私が〈君〉を愛したのは必然だった。
だからこそ期待してしまう。私が愛した分だけ、〈君〉から愛が返ってくると思った。
〈君〉はもっと未来のことを考えていると思った。
〈君〉と過ごすとき、私は〈君〉の隠された悪を注意深く拒まなければならなくなった。私は〈君〉の特別なんかじゃなくて、その他大勢のうちの一人。〈君〉はすべてを見ている。私を見ている。けれど、本当は誰も見ていない。天使は誰も〈君〉へと導かない。だから私は、勝手に恋をして勝手に失恋した。
邪魔だったのなら、
生まれた時に祝福しなくてよかったのに。
〈君〉にとって害だったのなら、
早く切り捨てて欲しいのに。
たとえ私が〈君〉を嫌っても
〈君〉から離れることも、〈君〉の瞳から逃れることも、今はできない。
何故なら〈君〉は
私達の死を、大地の古い秩序に繰り入れるから。
何故なら私は
〈君〉の無意識下にある循環の一部に過ぎないのだから。
…ほら、面白くない!!
月に願いを
私のいない間に
どうかあの子を見守って
降り止まない雨
帰郷。田舎町。通り雨。
懐かしい風景だと、郷愁に浸っていた矢先にこれである。収穫時期ではない、目の前に広がる青々と生い茂った茶畑にとっては素晴らしいことかもしれないが、昔の通学路にある東屋に座り、身動きが取れない私にとってはあまり好ましくない状況である。
折りたたみ傘を干したまま忘れてしまった、過去の私を責めても仕方ない。やはり珍しいことは、あまりするべきではないのかもしれない。
とりあえず考えるのをやめて、鞄からスマートフォンを取り出した。駅からこのまま実家に帰る予定だったが、母に雨が止むまで少し遅れると連絡を入れるためだ。しかし、電源を入れたところで手が止まる。久しぶりに私と会えることを楽しみにしていた母は、この連絡を見て迎えに来てしまうのではないか?と。今の母に無理な外出をさせたくもないし、もう私は子供でもない。いや、母にとってはまだ幼い娘か。
「できない娘でごめんなさい…。」
暗くなったスマホの画面に、雫が落ちる。
私は慌てて自分の右頬を打った。…痛い。
私の良くない癖だ。何もないと、考えすぎてしまう。だからこそ、雨宿りはあまり好きではないのだ。
走って帰るか。そう決心した時だった。遠くからこちらに向かって走る、足音が聞こえてくる。東屋に雨宿りをしに来るつもりなのだろうか。私は撤退した方が良いのではないか。そんなことを考えているうちに、足音の主は東屋の前で足を止めて姿を見せた。
「あっ、お前また自分の頬ぶっただろ。」
「久しぶりに会った親友との会話、第一声がそれですか…。」
《親友》だった。
「いや頬が赤くなってるから、お前変わってないんだなぁって思った。ごめん。」
親友は息を大きく吐きながら、私の隣に座った。
いらない心配をさせてしまったかもしれない。
「謝らなくて大丈夫ですよ。それより、大丈夫ですか?ずぶ濡れ…」
私は鞄からハンカチを取り出して渡す。ハンカチの予備はあるのに、何故傘は忘れてしまうのだろうか…?
《親友》はハンカチを受け取った。
「サンキュ。お前が傘忘れるとか珍しいな。」
「えっ。あ、そうですかね。」
「このハンカチだって濡れてないし、どうせ予備だろ。折りたたみ傘とかあってもおかしくない。それに俺は昔からここで雨宿りしてたけど、お前と会ったことなかったし。」
「…たしかに。」
雨宿りは好きじゃなかったから。
あの時から無意識に、絶対に傘を忘れたくないと思っていたのだと思う。
「最近どうなのさ。無理してないか?」
「あー。…そうですねぇ。」
ここ数年会ってなかった《親友》に、こんなことを話してもいいのか。私の話なんか聞いても面白くないだろう。
それに、もうすぐ雨は止む。予定があるのだとしたら、長居させてしまうのは申し訳ない。
「大丈夫ですよ。とっても元気です!」
「…そうか。」
「そちらはどうですか?これから予定があるのでしたら、もう帰っ」
「あのさ!」
急に《親友》は大声を出した。…いや違うな。湿度が高いから音が伝わりやすくなっただけか。広い土地に《親友》の声が響き渡る。《親友》はハッと顔をあげて私を見た。
「あ、ごめん。急にデカい声出して。」
そうでもなかった。
「あのさ、やっぱり話してくれないかな。会えなくなったあの日から、今日までのこと。…全部。」
「え。」
私はしばらく口を開けて固まってしまった。口角がだんだん上がっていくのを感じる。
「全部って…ぜ、全部ですか?それって、長くなりますよ…?」
「うん。…あー」
《親友》は空を見上げた。
「…雨が止むまで、でいいからさ。」
私もつられて空を見る。そして、思わず笑みがこぼれた。
「…それなら、沢山話せますね。」
「やまないなぁ。」
「やみませんねぇ。」
水溜まりには美しい虹がかかっていた。