「大嫌い」
言った彼女の目から雫がこぼれた。一滴、二滴という量じゃなくて、それはとめどなく溢れ両頬を濡らしていった。
真っ赤な目をして彼女は僕を睨んできた。こんな顔は見たことなかった。いつも穏やかで優しい彼女が今日はものすごい辛そうな顔をしている。相変わらず涙は止まらない。そうさせてるのは、僕だ。
「ごめん」
「そんな言葉がほしいんじゃないの」
そうかもしれないけど、僕は謝ることしかできないんだよ。僕は君を幸せにしてあげられることはできない。だから、別れよう。そう切り出した結果こうなった。
彼女の頬から落ちた雫たちが地面に染みを作ってゆく。大きく丸い瞳から絶えず溢れ重力に従って落ちてゆく。彼女の泣き顔を初めて見たわけじゃない。でも今の僕はどうしようもなく狼狽えていた。だってこれは嬉し涙でも悔し涙でもない。彼女の心の底から悲しんで出た涙だ。そして悲しませてるのは僕なんだ。
「ごめんね」
もう一度言って彼女に半歩近づく。その肩を抱いてあげられたならいいのに。だけど僕にはもうそんな資格なんてないから。君からの鋭い視線と涙に耐えるしか、術がないんだ。もう君を、救ってあげられないんだよ。ごめん、ごめんね。
君が好きだよ、君さえいれば何もいらないよ
って言ってよ。
もうこの際嘘でもいいから。
言ってあたしを安心させてよ。
あたしはあなたのものでしょう?
あなたは、あたしのものじゃないの?
あたし以外の他の誰を見てるの?
あたしは、あなたがいれば何もいらないよ。
あなたはどうなの?
あたしじゃダメなの?
もうやだよ、こんなふうに不安になるの。
あなたがいれば何もいらないのに、それが叶わないんじゃ生きてたってどうしようもないよ。
だって他に何もいらないんだもん。
それくらいあなたが好きだよ。
本気だよ。
本気の証拠、見てみる?
もしも未来を見れるなら。
今のように無理なく生きてるか確かめたいな。
人と比べず、自分のペースで、日々の些細なことに幸せを感じられてるか確かめたい。
って、思ったけど。
確かめると未来への楽しみが減っちゃうし、余計な不安抱えそうだから見たくないや。
予期せぬことが起こってる確率もゼロじゃないし。
もっと平和なことを見にいけばいいのか。
あそこの公園どんなふうに変わったかなー、とか?
週1で行く総菜やさんメニュー増えたかな、とか?
でもそれらも、今知っちゃうとつまらないからやめとこかな。
“未来は自分で切り拓くものだ”なんてかっこつけたこと言えないけど、そんなすぐに知らなくていいことはこのままでいいと思うんだよね。
だから“見なくていい”が、私の答えかなあ。
自分が今どうしたいのか分からない。
眠いのか空腹なのか。
でも、ただ1つ分かることは。
君がいなくなった世界はこんなにも無色になるんだな。
色どころか、音もないや。
嗅覚も少しずつ失くしてゆく気がする。
君の匂いをいずれ忘れてしまうのが、つらい。
『せっかくさ、咲き出した途端に雨が降るんだもん』
ちょっとだけ頬を膨らませて彼女が言ったのは去年の春の出来事。たしかに、“花の雨”という言葉があるように、桜の咲く時期に雨が降るのは珍しくないみたいだ。
彼女は桜が大好きだった。限られた僅かな時期にしか咲かなくて、それでも人々を魅了するほどの美しさがそこにあって、日本を代表する花だから、だそうだ。桜が嫌いな日本人なんていないと思う。僕も桜が好きだ。正確には好きだった。
あの日彼女が桜に見とれて手すりから滑り落ちるなんて事態にならなければ、この先もずっと好きだったと思う。桜のせいで彼女は帰らぬ人となった。桜が彼女を僕から連れ去ってしまった。そんな花をこの先穏やかな気持ちで愛でていける自信がない。この世から桜が無くなればいい。そんな頭の可笑しいことを考えているのは世界中で僕だけだろう。
今年も変わらずあちこちで桜は咲いた。そして、満開と同時に彼女の言う通り長雨が降って呆気なく散っていった。もしかしたら神様が僕のためになるべく早く散らしてくれたのだろうか。そんな都合のいいことを考えながら僕は彼女の墓標を見つめる。きっと彼女は悲しんでいる。今年の桜は短かったな、とでも言いそうな気がする。
墓に落ちた小さなピンクの花びらを拾った。この近くにも桜の樹がいくらか植わっているから、風が運んできたのだろう。こんな可愛らしい花が僕の彼女を殺しただなんて信じたくない。嘘だと思いたい。あの頃に戻りたい。