君が僕の手を取ろうとしなかったあの日から、なんとなく感じてたんだ。もうこの関係は破綻しているって。でもその理由が、君に僕以外の誰か他の存在があるだなんて思わなかった。いつからアイツのことが気になり始めてたの?怒らないから、教えてよ。分かったところでもう君の心は僕のほうへ振り向くことはないんだろう?
思えば、僕らの始まりは君が僕の隣りに座ってくれたことからだった。ひょんなことで仲良くなって、同じゼミに入って課題を一緒にやったりして。気がつけば君は僕の隣にいつもいてくれた。告白してくれたのも、君だった。君が僕の全てだった。始まりが君からだったから、せめて終わりは僕からにしよう。君はこれから僕に会いに来る。いつもとかわらないただのデートだと思ってる。でも本当はそうじゃない。別れの言葉と、感謝の言葉を君に伝えて僕は潔く君の前から消えるんだよ。どうせ引き留められることはないから言う言葉は端的に。できるだけあっさりと終わらせるつもりだ。そしたら君は晴れてアイツと一緒になれる。これが1番いい選択なんだよね?君にとってのハッピーエンドの展開はこれが良いんだ。でも、僕にとってはバッドエンド。君の幸せを願うと僕は不幸になってしまうなんて。皮肉なもんだ。あんなに君と楽しく過ごした時間さえも嘘だったと思いたくなるよ。でもいいんだ。これで、いいんだ。
さようなら。ありがとう。
「そんなに見つめられると緊張しちゃうな」
ややおどけて先輩が言った。私に見つめられても緊張なんかしないと思う。先輩は注目されることに慣れてるから。何でもできて、誰からも好かれる人だから。
相変わらずじっと見る私。先輩の顔というより彼の指先を。その10本のしなやかな指は、これから白と黒の鍵盤の上で踊りだす。
「じゃあ弾くね」
演奏はささやかな音で始まった。優しい指遣いで繊細なメロディーを奏でてゆく。まるでピアノが喋っているみたいに。先輩のこの才能を、誰もが羨み尊敬している。流れる音楽が心地よくて私は椅子に腰掛けたまま目をつぶって聞くことにした。先輩の演奏姿を見つめながら聞き入るのもいいけど、今は音だけに集中したいと思った。だから視覚を閉ざすことにした。
この曲は最初から最後まで同じテンポで進んでゆく。ゆったりとしていて心がとても落ち着く。先輩が弾くとヒーリング効果が凄すぎてうっとりしてしまう。
曲の終盤になって、私はゆっくり目を開けた。真剣な顔で楽譜を見る先輩の横顔がそこにあった。いよいよ曲も終わり。なんて名残惜しいんだろうと思った。ずっと聞いていたいと心底思う彼の演奏。音楽が止まって先輩の手はピアノから離れた。私に向き直り笑顔を見せてくる。反則だ。
「どうだった?」
「最高でした」
私は実に捻りのない感想を述べる。仕方ない。先輩のピアノにはいつも圧倒されて言葉が出ないのだ。代わりに出るのは涙だった。感動して泣けるって幸せなことだなと思った。
あぁ
君のことを思うたびこの胸の高鳴りは止まらないよ
どうすれば、君にこの気持ちを伝えられる?
僕はもうこんなにも恋に落ちている
届け僕の熱い思い
きっと受け入れてくれるよねMy Heart
今すぐにでもI want you
君とならどこまでも駆け抜けていけそうさ
さぁ
僕らの羽根を休めるにはまだ早い
恐れないで
僕を見つめて
君の瞳に今からTake offするから
「みたいなことを書き綴っていたポエムノートを何処かに落としてしまったんだ」
「それ、死んだほうがマシなヤツだな」
「あぁ……」
昨日からいつも持参しているノートがない。そこには僕の愛の叫びが惜しげもなく書き記されている。いわゆる僕の趣味だ。その、僕の痛々しい本性を唯一知っている友人にこのことを打ち明けたら憐れんだ目で僕を見てきた。
「とりあえず、どーするよ?思い当たる場所はもう探したんだろ?」
「探した。けど無かった」
「じゃもう誰かが拾ったんだな」
「おそらくそうだろうな」
「ワンチャン、センコーが拾ってくれればいいのにな?そしたら別にそこまで大ごとにならないで済むんじゃね?」
「まぁ……そのほうが傷は浅いのかもしれない」
「あの、」
僕らの会話の中に1人の女子生徒が入ってきた。確か隣のクラスの子。あんまり話したことはないが顔は知っていた。そして、その彼女が手にしているのがA6サイズの見慣れたノートだと知った瞬間、全身の毛穴から一気に汗が吹き出てきた。
「そ、そそそそそそそそ、それ、は……」
「やっぱり、七瀬くんのだったんだね。はいこれ」
「や、あ、ど、なっ、あ、その、がはっ」
「落ち着けよお前」
友人が僕の背中をばしんと叩く。息を吸うことをすっかり忘れていた。気を取り直して、いや取り直すなんてもう無理なんだけどさっきより気持ちが落ち着いたので僕は彼女に話しかける。
「これ、どこにありましたか?あっ、拾ってくれてありがとう」
「学食のテーブルに置かれてたよ。もしかして昼休み行ったんじゃない?」
「行きました……」
「うわあ」
僕も友人も考えていることは多分同じだ。このノートは学食なんていう大勢の生徒が行き来する場所に放置されていた。ということはつまり、ノートの中身を見たのは彼女だけじゃない。何人、いや、何十人もの生徒たちが僕の愛の言霊を読んで笑いものにしたんだろう。どうしよう、汗が止まらない。おまけに目眩までしてきた。友人の言うとおり、いっそ死んだほうがマシなのかもしれない。
「ごめんね、誰のだろうと思ってちょっと中見ちゃったんだけど……」
「ヒイ」
「七瀬くんって、すごくロマンチックな人なのね。じゃあね」
「へ……?」
てっきり、“キモイウザイヘンタイ”のたぐいの言葉を浴びせられるかと思ったのに。そうではなくて、彼女の口から出たのは、まさかの称賛だった。
「おい、やったじゃねーか!」
やった……のか、これは。分からないけど、彼女は僕にそれ以上追求することなく行ってしまった。僕は阿呆みたいに、彼女の後ろ姿をじっと見つめていた。やがえ姿が消えても、ずっと。
「多分お前のそのノートの中身に共感したんだろうな」
「そうなのか……?」
「だとしたら、やることは1つだ。そうだろ?七瀬」
「お?」
「その隠れてコソコソ書き溜めたクサイ言葉集を今こそその口で言うんだよ。もちろん、2人きりの場所で」
「な、なんだって」
「俺がお膳立てしてやるからよ。そしたらお前、晴れて初彼女ゲットだ。ついでに……童貞卒業も近いかもしれねーなぁ?」
友人が意地悪くにやりと笑う。余計なお世話だ、と反論したが、はたしてそんなことあり得るのか?
「それまでに、新作作っとけよ」
「お、おお」
なんだかよく分からないが、できる気がしてきた。
そうだ。僕はやればできる子なのだ。あの子にだってきっと届く。待っててくれ。この僕のおさまらないMy Heartを、胸のビートに刻みつけてやるからさ!
あの子より、私のほうが幸せ。
私のほうが頭が良いし、沢山の洋服やブランドバッグを持ってる。お小遣いだってママにお願いすればいつでももらえちゃう。
なのになんで、こんなに私のほうが沢山持ってるのにあの子に勝てないんだろう。
あの子のお家は貧乏で、毎日小さいお弁当持参してて、毛皮のコートなんか持っちゃいない。でもいつも楽しそう。私よりも周りに女のコが集まってくる。なにかくだらない話題で楽しそうにみんなでケタケタ笑ってる。
バカみたい。
私のほうがすごいのに。
私のほうが恵まれてるのに。
そんなふうに無理して笑う必要ないのに。
なんだか面白くなくて、いつもあの子の周りにいた女のコたちとってみた。新商品のコスメあげるよ、って言ったらみんなあの子を置いて私のほうに来た。友情ってちょろいもんね。
あの子はめでたく独り。さてどうしてるかなって思って見てたら黙々と読書をしてた。友達もいなくなっちゃったから、することないんだな。いい気味だなって思ったの。
なのにあの子はちっとも寂しそうじゃない。ずっと動かず本に夢中になってる。とうとう同じクラスの男の子に「何読んでるの」って話しかけられてた。あっという間に2人は仲良くなって、何か楽しげに談笑しだした。
嘘でしょ。
どうしても独りじゃいられないわけ?いつもそうやって、誰かを巻き込むのが得意なんだね。
バカみたい。
ううん。
バカなのはあの子じゃない。
たぶん、バカなのは私。
なんなの、アイツ。
好きじゃないのに目に入る。だって私の前でやたら転んだりプリントぶちまけたり物落としたりしてんだもん。そんなに注目されたいわけ?
「あ……ごめん、ありがとう」
別に無視しても良かったけど、あまりにも派手なコケ方するから見て見ぬふりできなかっただけ。どんくさいったらありゃしない。
よくあれでいつも試験の順位上位取れてるよね。頭の良さと反射神経は比例しないってことか。
「助かったよ、ありがとね」
まき散らしたプリントを抱えてアイツはどこかへ歩いてゆく。あんな量1人で抱えてるから落とすんだ。もうひとりの学級委員に頼めばいいのに。……ていうか、あたしが持ってあげても良かったけど。頼まれたらそうしてたけど、いっか。もう行っちゃったし。せいぜいもう転ばないでくださいよって感じ。
はーあ。アイツのせいで昼休みの時間減っちゃったよ。アイツはご飯、食べたのかな。なんかまたパシられてそのまま食いそびれてそう。これから学食行くけど、パンでも買ってってあげようかな。もちろん金とるけど。
……気が向いたら、買ってあげよ。