朝から降っていた雨はやがて夜には雷雨になり、激しいイカヅチがひっきりなしに落ちていた。
ぼくの住んでいる地域は1時間ほど前から停電に見舞われている。何もすることがないのでスマホゲームをしていた時。ふと、あの子のことを思い出す。
――あの子は大丈夫かな。
暗いところが大の苦手だった。同級生にそれをからかわれて半泣きしてた彼女を今でも覚えている。あれから数年が経ったけど、あの子は今どうしているだろう。1度しか同じクラスにはならなかった。もともと会話もそんなにしなかったから連絡先も知らない。なのに思い出したのはなんでだろう。停電してなにもすることがないからなのかな。
もしこの近くに住んでいるのなら今きっと怖いに違いない。早く電気が回復するといいな。
そんなことを思いながら僕は窓の外を眺めた。まだまだ雨は止みそうにない。
「ちょっと来て」
泣いていたあたしの手を取って彼は歩き出した。何処へ行くの。何処だと思う?会話はそれきりで続かなかった。5分くらいちょっとけもの道みたいなところを歩いて、ついたよ、と言われた時には目の前には満天の星空が広がっていた。
「きれい」
「だろう?」
真っ黒い空の中に、無数のきらきらしたものが浮かんでいる。ここは都会と違って空気が澄んでいるからこんなに綺麗に見えるんだよ。彼の説明を聞き流しそうになるほど、あたしは夜空を見上げるのに夢中だった。星の名前なんて、実際にひとつも知らないけれど、この景色を美しいと素直に感じられることができた。感じた途端、止まっていた涙が再び出てきた。でもこれは決して悲しい涙なんかじゃない。美しいものを美しいと思えることに喜びを感じた。と、同時にさっきまであたしの頭の中を支配していた嫌な気持ちが不思議と小さくなってゆくのが分かった。瞬く星が綺麗。今はただそれだけを思って、飽きることなくいつまでも上を見ていた。
「いらっしゃーい」
昨日も一昨日も、その前も来たこの病室。いつも変わらず君は笑顔で出迎えてくれる。日に日に増えてゆく腕の注射の針の痕が痛々しい。でもそんなことみじんも感じさせないかのように君は笑いかけてくるのだ。まるでこの部屋に差し込む木漏れ日のように。
「来週にはもう桜が咲いちゃうんだって。なんか年追うごとに早まってるよね」
「そうだね」
本当なら、今度一緒に見に行こうかと言ってあげたいけどそれは叶わない。君はこの病室から出ることはできない。この春だけじゃなく、今度の夏も、秋も。そんな残酷な事実が待ち構えているというのに相変わらず君はにこにこと笑みを絶やさずベッドの上に座っている。
どうしてそんなに笑えるんだろうか。君のその優しい雰囲気はいったいどこから溢れ出てくるのだろう。僕はといえば、なんで君なんだとか、他の、例えば犯罪でも犯したヤツに君のこの病を押し付けられたら、みたいなことを延々と考えている。1人になると常にそんな黒い感情ばかりを膨らませて。君の笑顔とは正反対に僕は泣いてばかりの日々を送っている。
でもそんなこと君には言えやしない。僕に気を使って笑ってくれているかもしれない君に、これ以上不安を与えるなんて許されないんだ。だから、ここに来る時だけはどんなに現実が辛くても僕も笑うことにした。心は泣いていても、無理矢理笑うことにした。
「もう春なんだねぇ」
しみじみと、穏やかな口調で君が言った。視線は窓の外を見つめている。病院のすぐ外に植わっている木の枝が見えて、小さな芽吹きが確認できた。太陽を受けて病室からはきらきらと光って見える。それを愛おしそうに君は見つめている。この上なく安らかな瞳だった。優しくて温かでなんでも受け入れてくれそうな瞳。その瞳が見れなくなるのはいつなんだろうか。刻一刻と君とのお別れは近づいている。色々考えてしまってからふと我に返ると、いつの間にか僕は握り拳を作っていた。ここでは穏やかな自分でいたいと決めたのに。でも、それでも君と別れるのは受け入れられない。どうしても、嫌なんだ。いっそ時間が今この瞬間で止まればいい。もう春が来なくたっていい。そんな馬鹿なことを考えてしまうくらい、君のことを愛しているんだ。
“今日は会えない”。
昼休みに、携帯を確認するとそれだけ送られてきていた。どういうことだよ。仕事がのびそうとか、急病になったとか、理由もなしに会えないだなんてあんまりだ。
普段よりもイラッとしてしまった理由はちゃんとある。彼女と会うのは、今年に入って初めてなのだ。年末年始も互いの仕事の目処がただずに会うことができなかった。せめてもの電話で新年の挨拶を交わし、今年はゆっくりどこか旅行でも行きたいね、だなんて話してからあっという間に2ヶ月あまりが経とうとしている。季節も1つ終えてしまった。淋しいけど、彼女は一生懸命自分の仕事を頑張っている。それを分かってるし、男のくせに安易に“会いたい”だなんて口にするのもどうかと思ったから、大人しく彼女のスケジュールが落ち着くのを待っていたのだ。
ようやく、“来週末空いてたら会える?”なんて嬉しすぎるメッセージをもらって。僕はすぐさま返事をした。ちょっとお高めのレストランの予約も入れておいた。別に会う日は彼女の誕生日でもなんでもないけれど、小さなブーケでも用意したら喜んでくれるんじゃないか。そんなことを考えながら今日という日を待ち侘びていたのに。
“会えない”の理由をせめて知りたくて、彼女の携帯に電話をかけた。でもどうせ、出ないのは分かっている。僕よりも遥かにハードワークをしているのだから。だが予想とは異なり、コール音は3回で途切れた。
『はい』
電話の向こうから彼女の声が聞こえる。まさか出るとは思ってなかったから何を話すべきかもたついてしまった。出るはずかない、と思っていながら電話をかけるのは可笑しな話だが、本当に彼女の声が聞けるとは思ってなかったのだ。
「久しぶり」
かろうじて出た言葉がこれだった。肉声を聞くのは1か月以上ぶりだから間違ってはいない。
「今日、会えないってどういうこと」
『……ごめんなさい』
「僕は理由が知りたいんだよ」
1度だって、君の仕事の忙しさを咎めたことはなかった。あぁ頑張ってるんだなって、誇らしくも思ったりした。でも今回だけは。納得はせずとも君の口から理由をちゃんと聞きたい。そう思ったから、出るか分からないけど電話をしたのに。
「……泣いてるの?」
聞こえる声が僅かに嗚咽を孕んでいた。訳が分からない。会えない理由も泣いてる理由も、何も分からない。でももう、さっきまでの苛立たしい気持ちはさっぱり無くなっていた。心配でもどかしい、これまた後味悪い感情が頭の中に広がる。
『今日、本当にごめんなさい』
「いいんだよ、仕方がない。それよりどうしたの。なんで泣いてるの」
『仕事で、ちょっと』
うまくいかなかったの。消え入りそうな声で彼女が言った。泣くほどまでに向き合っているからこそ、うまくいかなかった時にどうしようもなくなってしまうんだろう。そんな彼女はこれまでに幾度となく見てきた。僕なりに、ずっと隣で見守ってきたつもりだ。大して力にならなかったかもだけど、誰よりも君のことを心配していた。今だってそうだ。
「今日、無理にでも会えるとしたら何時なら会える?」
『え?……えっと……だめ、日付変わるのは確実だと思う』
「いいよ、それでも。終わったら連絡して。会いに行くから。それまでずっと待ってる」
『……ありがとう』
ちょっとやそっとで諦めるもんか。君に会わない限り、僕の今日は終わらない。だからいくらでも待つよ。そう言うと、彼女がもう一度震える声でありがとうと言ってきた。こんな時に思いきり抱き締めてあげられたらいいのに。
それでもいくらかは彼女のメンタルを助けてやれたようで。じゃあ後でね、と最後に話した彼女の声は、ようやくいつもの落ち着きはらったものだった。
何時でも、待つから。だから僕と会う時はどうか笑顔でいてほしい。
じゃあ早速。
出身は?好きな色は?得意な教科は?
休みの日って何やってんの?犬派?猫派?
何って。隣の席になったんだからお互いのことを知ったほうがいいでしょ?きみのこと知る代わりにあとであたしのことも教えてあげる。質問も特別に受け付けちゃうよ。
……え。そう、なの。そんな興味ないか。そっか。
じゃあ……ひとまず、よろしく。
あ、教科書とかもし忘れたら言って。貸したげるから。あたし視力良いから黒板の字も良く見えるからもしなんかあったら頼ってくれていーよ。
え、うん、そうだけど。
なんでよ、別にそんなんじゃないし。
いいじゃん別に、そんなのあたしの勝手でしょ。
へっ。
……え、うん。いい、けど?
まぁ、別に減るもんじゃないし。
じゃあID送るね。ここから読み取って。
あ、きたきた。犬のアイコン。
……ってことは犬派なんだ?
へー、そうなんだ。あたしの家にもいるよ、ほら!
かわいいでしょ?
まあねー。自慢かな、そこは。
あ、授業始まる。
はーっ、数学かあ。あたし苦手。
え?得意なの?変わってるね〜。
うそうそ、ははは、けっこう面白いね、きみ。
……あのさ。授業終わったら、
またあとで、喋ったりできたら、いいかな、なんて。
別に、きみがイヤならいいんだけど。
え、ほんと……?
うん……!
そうする。
はあ。
やっぱ好きだなあ……
ううん、なんでもないこっちの話。
どうもありがと。