人生のあり方だとか、理想的な暮らし方とか自分の魅力の磨き方だとか。本屋にはいろんなタイトルの本が並べられていた。いわゆる“自己啓発”のコーナー。これらを読んで早速実践してバラ色の人生を手に入れられた人ってどれくらいいるんだろう。
そもそも何をもって“理想”とやらは決まるんだろうか。それぞれ生まれも育ちも違うのに、この本の中で一括りにされた理想とやらはさぞかし薄っぺらい内容なんだろうな、と思う。
教科書にも手引書にも辞典にも新書にも僕の人生についてタメになることは載っていない。著者にとっての理想が、僕にとってはそうじゃないことだって大いにある。だからあんまり、そういう類いの書籍を読む気になれないんだ。かっこよく言ってしまえば、僕の人生は僕が決める。つまりは、そゆこと。
理想だなんだって高望みするのもあんまり好きじゃないんだよね。目標を持つことは素晴らしいと思う。けど、理想ってのは所詮理想でしょ?億万長者になることも大豪邸を建てることも総理大臣になることも僕の人生の中にはちっとも魅力を感じない。そんなものなんかより身の丈にあった暮らしをいつまでもしていたいよね。それでいて、些細なことに幸せを感じられる自分でいたい。
たとえば……って聞かれると、うーん、すぐ浮かぶのは……お風呂に肩まで浸かれることとか?笑い事じゃないからね、水を自由に使えない地域だってうんとあるんだから。そういうさ、小さなことに感謝しながら歳をとっていけたら幸せがずっと続くと思うんだよね。時には高望みとか神頼みみたいなものに縋ることも、ゼロじゃないけど。基本的には、毎日毎日同じ日々だと思いがちな今日1日を大切に生きてゆくこと。
あ。もう1個、たとえばな些細な幸せが思いついた。君が今日も僕に会いに来てくれたこと。……そんなこと、だとか思ってる?だって、確実に来るとは限らなかっただろう?君と過ごせるこの平穏な日常に感謝を。願わくば明日も会いに来てくれますように。
願わくば。
この先世界が沢山の愛に包まれ、いつまでも平和で安息な日々が続きますように。誰もが笑って過ごせるような世界がいつまでも存在意義しますように。
なんてさ。
馬鹿みたいだ。
人間だから、こんな毎日のように諍いが生まれる。喋れて笑えて怒れて泣ける唯一の生き物だから。そんな、複雑なことが出来ちゃうから。存在意義とか独占支配とかくだらない欲望を生み出したのも僕らだ。この世界を勝手に荒らしておいて何が世界平和なんだろうか。呆れてものも言えやしない。
かく言う僕だってその人間の仲間なのだけど。
人間が戦争なんてものを企てる限り、火を扱うのをやめない限り、作った法律を破る馬鹿が存在する限り、この世界にいつまでも愛と平和が在り続けるだなんて無理な話なんだろうな。
そして、僕ひとりが変わったって、意味ないんだろう。僕がどんなに貢献したとして、この世界の汚さは1ミリも変わったりはしないんだ。
そんな、希望もへったくれもない未来。もう少し夢の持てる世界にしてほしかった。否、そうしてしまったのも人間なのだ。
救いようのない話だな。それでも腹は減るんだな。それってつまり今、僕は平和な中で生きてるんだろうな。
僕がまだ学校にあがる前の頃の話。当時は喘息をこじらせていてあんまり外に遊びに行くことができなかった。家で遊ぶのは嫌いじゃなかったけど、本当は、近所に住んでる子達に混じって鬼ごっことかかくれんぼをやりたかったんだ。それを母親に言ったらひどく怒られてさ。でも、その時の僕も幼いながらに精神状態がやや不安定だったらしい。母の静止を無視して家を飛び出した。行く先なんて考えずなりふり構わずといった感じで街を走り抜けた。案の定、帰り道は分からなくなるし息が上がって苦しくなる。独りで泣いても街の人は誰も手を差し伸べてくれなかった。たったひとり以外は。
馴染のない住宅街の隅っこで蹲ってたら女の子がどうしたのと話しかけてきたんだ。歳は僕くらいだとなんとなく思った。涙でぐしゃぐしゃの僕にその子はポケットからマーブルチョコを取り出して分けてくれた。「ピンク色が美味しいんだよ」って言ってたけど、味はすべてどの色も同じということを当時は知りもしなかったからピンク色がとても美味しいと感じたんだ。
女の子は僕の手を引いて自分の親に事情を話してくれた。そこからは大人である彼女の母親がどこかへ連絡をしてくれて、僕の母が僕を迎えに来てくれたのは1時間以内だった。怒られたけど、それ以上に心配されて抱きしめられた。今でもそれはいい思い出として残ってる。
やがて数年が経って僕の喘息がおさまってきた頃、クラスに転校生がやってきたんだ。彼女の出身は僕と同じ地区だった。ある日、たまたま昇降口で居合わせた時、その子が鞄からマーブルチョコを取り出したのを見つけた。なんだか懐かしくて僕はその手元をじっと見つめてしまった。そうしたら彼女は「食べる?」と言ってきた。笑い方が、なんだか見たことある気がする。そんなことをぼんやり思っていたら、
「ピンク色が美味しいんだよ」
そう言ったんだ。確信したよ。この子だって。あの日僕を助けてくれた女の子に間違いないって。奇跡とも思った。もう過ぎ去っただけのあの日が、一気に蘇ってきたんだよ。
彼女の家庭は転勤族だった。せっかく知り合えたのに。せっかく話ができるほどに仲良くなったのに。彼女はまた、転校しなきゃならなくなってしまった。僕はまだあの日のお礼を言えていない。だからちゃんと伝えなければいけない。君が僕の前から再び消えてしまう前に。そう決心して、君のことをメールで呼び出した。約束の時間までまだ1時間以上あるというのに僕は指定した公園のベンチにいる。ポケットからマーブルチョコを取り出した。筒型の容れ物を振って出てきた色は、ピンク色。一番美味しい色だ。縁起の良い色が一発で出て、この後、君にお礼以外にも伝えようとしていることを後押しされた気持ちになった。
“ありがとう”と“君が好き”。
それだけを、伝えたいんだ。
気付いた時には勝手に手が出ていた。
乾いた音がした。でも、彼は顔色1つ変えずにあたしを見つめ返してくる。あたしに引っぱたかれた頬にゆっくりと手を添え、妖しく嗤っている。なんで嗤ってられるのかちっとも意味が分からない。バカらし、と思う反面その笑顔が不気味だった。
「聞こえなかったか?いくら欲しいんだよ」
もう一度その言葉を口にする。途端におさまりかけていた怒りが再沸騰してきた。もう我慢できない。これ以上ここにいるとそのうちあたしは彼を殺してしまうかもしれない。罵声を浴びせたい気持ちをおさえて、あたしはここから出ていくことにした。でも。
「逃げるのか?」
あたしがこんなに苛ついてるのが分からないのか。いや、わざとそんなことを言ってあたしの反応を見て楽しんでるんだ。それを思ったら尚更苛立たしさが増した。でも、コイツなんかに感情的になったら駄目だ。話をしても分からない相手なんだから、これ以上相手をするだけ無駄なのだ。言い返せないのが少し悔しいけれど、あたしは無言のまま扉の取手を握る。
「冗談じゃねぇよ」
背後から声がしたのと、あたしの手をドアノブごと握られたのは同時だった。彼がすぐ後ろにいる。さっきまでの、人を小馬鹿にしたような空気は無くなり、今はどこかピリピリしたものに変わっていた。
「ここまで執着しないのなら、金を出してお前を買うなんて馬鹿げたことは考えねぇよ」
「何、言って」
「お前だからこの話を持ち掛けたんだ。他の誰でもない、お前だから俺の全ての資産を対価にしてでも欲しいんだよ」
「……そんなの、」
勝手だ。この人は勝手で我儘でものすごく横柄な人間だ。物事が全てお金で解決できると思ってる。金を払えば何でも手に入れられるのだと、心の底から思っているのだ。当然そこにあたしの気持ちなんてものは存在しない。あたしのことを金で手に入れようとする人間なんかに、一生あたしの気持ちなんて分かるわけない。
「どいてよ」
「お前は俺のものだろう?」
「ならないよ」
「いくら欲しいんだ?」
「要らないよ……!」
どうせ、あたしの気持ちなんて分かってくれない。本当はあたしがあなたのこと、優しくて素敵な人だって思っていたことも。一瞬好きになりそうだったことも。
お金なんかじゃなくて、ただ一言、“俺のもとへ来ないか”って、ただそれだけ言ってほしかったのに。
やっぱりあたしには無理だな。お金よりも大事なものを知らないあなたは、あたしには無理なんだと悟った。
失くして初めて気づいた、とか
まるでドラマとか本の中でしか出てこないものだと思ってたけど、
今まさに味わってみて、ほんとに心がぽっかりしてるよ
まさに、ぬけ殻
この後無性に後悔するんだろうな
もっと話せば良かった
もっと笑えば良かった
もっと泣けば良かった
もっと大切にしてあげれば良かった
もっと、もっと――
嘆いたところでもう遅いの
外はいつの間にか雨が上がってた
月が綺麗に顔を出している
月が綺麗だねって、最初にあなたが言ってくれた日に戻りたい
そんなの叶うわけないのに願ってしまう
それにしても憎たらしいくらい綺麗な月夜だ
あなたも今、見てたらいいな
それで私のこと思い出してくれたらいいのにな