深夜0時ジャスト、1件のメッセージを受信した。送り主はただ今絶賛喧嘩中の彼女から。
これは、もしかして。淡い期待が胸に広がる。何を隠そう日付が変わって今日は僕の誕生日なのだ。だからきっとそういう内容のメッセージに違いない。そう思って操作したスマホ画面。だがそこには考えてもみなかった言葉が表示された。
“さようなら”
どういう意味か、最初はよく分からなかった。言葉の意味じゃなくて何故このタイミングで、という意味合いで。だって、今日は僕の誕生日だろ。喧嘩してたことに対してのごめんねとか、誕生日おめでとうとか、そういう言葉をくれるんだと思ってたのに。
「最高の誕生日プレゼントだな」
口をついて出る言葉は皮肉しかなかった。無意識に、辞めた煙草に手を伸ばす。何の音もしない自室で、煙をくゆらせながらスマホを操作する。
さようなら。
僕も全く同じ言葉を送ったあと、そのまま彼女の連絡先を消去した。
安心なこと。
食べていける仕事があること。
帰る家があること。
愛する人がそばにいてくれること。
でも、もしも、
突然職場が倒産したらどうしよう。
家が火事に巻き込まれたらどうしよう。
あの人に別の好きな人ができたらどうしよう。
安心材料だったものは、ふとした時に不安なものへと化ける。
何だってそう。
些細なものでも、安心と不安が隣り合わせにある。
だからこそ。
“安心”なものを、当たり前に思わないように。
“不安”の虚像を、勝手に創り出して塞ぎ込まないように。
一歩一歩踏みしめて、安心を与えてくれるものに感謝して、不安にさせるものに打ち負かされないように生きてゆきたいよね。
「最後に写真撮ろうよ」
そう言って、彼女は自分のスマホを取り出した。僕の左隣に回り込んでインカメにする。写り込む僕らはなんだかぎこちなくて。思わず笑ってしまった。本当は、寂しい気持ちでいっぱいなのに。
「いくよー」
彼女の合図の数秒後、カシャリという音がした。同じアングルを何度も撮られて、こんな状況に慣れない僕は次第に落ち着かなくなってしまう。だってこんなに近い距離で、肩同士だって触れてる。微かに感じるいい匂いだって気のせいじゃない。今僕らの距離感はほぼゼロなのに、明日からは無限の長さになってしまうなんて。
「元気でね」
「君もね」
彼女が僕に分けてくれたツーショット。にこりと笑った彼女の横に、不自然な笑い方をした僕が写っている。でも、なんだか全体的に薄暗い。
「あはは。やっちゃった、逆光だ」
太陽を背負って僕ら仲良く寄り添った写真は見事に逆光になってしまった。でも、そのおかげで背後からの光が何とも儚さを醸し出しているふうにも見える。寂しげに笑う僕にちょうど似合っていた。
「あっちでもっかい撮ろうよ」
光のほうへと僕を連れ出す君の手。この手が、ずっとすぐ近くにあってほしいと願ってしまう。だけどきっとまたいつか会えるよね。どちらとも口にはしないけど、いつかまた、巡り会って笑い会えますよう。その思いを込めて、明るいところで一緒に撮り直した写真では、今度は僕はできるだけ笑ってみせた。
「いってらっしゃい」
「……いってきます」
カシャリという乾いた音とあともう1つ、僕の隣から鼻をすする音がした。
いつかまた2人で写真を撮ろう。
そしてその時は。
全力で笑った顔で写りたいね。
こんな夢を見た。
僕が仕事から帰ってくると、玄関前で君が仁王立ちして待ち受けていた。しかもその顔は穏やかじゃない。
「どうかしたの?」
「自分の胸に手を当ててみてよ」
そんなこと言われたって、僕には何も思い当たる節がない。黙ったままつっ立っていると、君がゆらりとこっちへ一歩踏み出す。薄暗い照明の下で何かが光った気がした。君の左手には果物ナイフがあることに気がついた。咄嗟に僕は後ろへ身を引くけど、こういう時に限って何故かドアは開かない。逃げなくては。そう思った瞬間と腹部に鋭い痛みを覚えたのは同時だった。自分の腹を覗き込むように見る。赤くてどろりとしたものが白いセーターから突き破るように滲み出してくる。
「当然の報いよ」
君が、かつてない程の悪い笑い方をして僕にそう言い捨てる。甲高い笑い声が狭い玄関に響き渡る。やがて僕の視界は暗くなっていき、君の姿も見えなくなってしまうのだ。
「なぁにそれ」
「だから昨日見た夢だって。君がものすごいおっかない顔して僕を殺すんだよ」
「やだー。それ悪夢じゃん」
勝手に人殺しにしないでよー。朗らかに笑いながら洗面所へ消えてゆく彼女。夢の中で恐ろしい笑い方をした人物と同一とは思えない。やっぱり夢は夢のままでいいんだ。良かった、彼女が今日も可愛くて。
「そうそう、聞きたかったんだけどさあ」
洗面所から戻って来た彼女は白い服を持っていた。僕のワイシャツだ。
「これ、何なの?」
彼女が指差す所。襟のちょっと下の部分に真っ赤な唇の形をした汚れがあった。赤黒くて、昨夜の夢の中の血のような色をしていた。僕はハッとなる。あれは、違うんだ。
「違うんだ。これは、」
「こんなに綺麗に残るもんなのね。お相手はどんな人なのか知らないけど」
誤解だ。これは満員電車の中で後ろから押された女性が僕にぶつかってできたものだ。その人からも謝られたし、何ならシャツを弁償するとも言われた。でも僕は断った。ワイシャツを変えたら不審がられると思ったから、帰ってからこのキスマークを自分で落とそうと思ってたのだ。だがそれをすっかり忘れてしまい、そのままシャツを洗濯かごに入れてしまったのだった。
「まぁいいや。言い訳とか、聞きたくないし。次からはきをつけてね。でないと夢のとおりになっちゃうかもよ?」
その時の彼女の笑みは、昨夜の悪夢のそれと少し似ていた。鼻歌交じりに洗面所へ戻ってゆく。その後ろ姿を見ながら僕はごくりと唾を飲んだ。悪夢の続きはもう沢山だ。
小学校時代の卒業文集で、
“タイムマシーンがあったらいつの時代に行きますか?”
という質問テーマがあった。クラスの奴らは“生まれた頃の自分を見たい”、とか、“未来に何をしているか確かめたい”なんて答えを書いてたっけな。つまり殆どが“過去か未来のどちらかに行きたい”。そりゃそうか、タイムマシーンなんだから。
でも僕だけは違ってて。“今この瞬間の地球の反対側”って書いたんだ。なんでそんなよく分かんないこと書いたのか、10年経った今でもよく分かってない。過去にも未来にも興味がなかったのかな。はたまた、クラスの中で目立ちたいがためにちょっと変わったことを書いてやろうとでも思ったのかな。
じゃあ今現在の僕が、“タイムマシーンがあったらいつの時代に行きますか?”と聞かれたらどうするだろうか。過去か未来か。どっちにしようか、至極悩む。過去を変える勇気も未来を変える度胸もない気がする。これまでの人生に後悔が全く無いわけじゃないし、将来に不安を感じていないわけでもない。だけど過去もしくは未来を変えに行けたとして。何をどうすれば正解なのか、分からないんだ。
だから答えは“どうもしない”。実につまらない回答だけど、僕にはタイムマシーンの力なんて必要ない。これまでのことを受け入れ、なりたいものに自分の力でなるんだ。
なんてね。
ちょっと、優等生すぎる?