あの人はどうしているだろうか。
あの街から旅立って早5年。気づけばこんなに西端の地にまでやってきた。知らない生物や見たことのない花がある。毎日が発見の連続だ。これだから旅はやめられない。
ふと、はじめの日のことを思い出した。あの日、みんなは笑顔で送り出してくれたけど、たった1人だけ最後まで私のことを睨みつけていた。それが彼女だった。当然、いってらっしゃいも言われなかった。笑顔も言葉もくれない代わりに彼女は泣いていた。じっと、私を見ながら涙を流していた。あの記憶が思いのほか強烈でたまに今でも夢に出てくる。きっとこれは私にかけた彼女からの呪いなんだろう。“私を忘れたら許さない呪い”とでも言いそうだ。
どうして急に彼女のことを思い出したのだろうか。それは多分きっと、この空を見ていたからだろう。彼女の瞳は綺麗な青い色だった。混じり気のない、澄んだブラオ。その瞳からとめどなく涙を流していたのだ。私のことを想って。そんな彼女に当然申し訳なさや後ろめたさを感じたけれど、神秘的で美しいとも思ってしまった。泣いている人にこんな気持を抱くのは後にも先にも彼女だけだろう。
今日の空は雲一つない、どこまでも続く青い空だった。あの人も見ているだろうか。この青を見て、美しいと思ってくれるだろうか。空は1つしかない。だから、彼女の頭上に広がるものと繋がっている。同じ青空を見ていることを願いながら私は立ち上がった。そろそろ次の行き先を目指そう。青空の下、私のあてのない旅は続く。
近ごろめっきり寒くなった。クローゼットの奥にしまってあった衣装ケースから長袖の服を引っ張り出す。何でもいいからあったかいものを、と思って適当に出したのに。まさかこの朱いカーディガンとは。
色物の服なんて選ばない僕に、彼女がプレゼントしてくれたもの。絶対に似合わないと思っていたのに、勧められて着てみれば意外としっくりきた。この色にこういうトップス合わせるといいよ、とか、パンツは細身のほうがかっこよくキマるよ、なんてアドバイスをもらいながら僕なりに着こなした秋。あれから数年が経ってしまった。
袖を通して鏡の前に立った。だが、あの頃はあんなに着こなせていたのに、そこに映る僕の姿は想像していたものと全然違っていた。やはり彼女が褒めてくれてその気になっていたからうまく着こなせていたんだろう。1人になった今では、このカーディガンを活用する自信がない。それなりに着たから棄ててもいいだろう。そう思って畳んだそれを部屋の隅に置いた。代わりに羽織れる別のものを探すため再び衣装ケースを漁る。ついでにタンスの中身も替えよう。衣替えだ。もうすっかり秋真っ只中なのだ。季節の移り変わりがこんなにも早いなんて。そりゃ僕も歳取るわけだ。
キミは、どうしているだろうか。元気に夢を追いかけているだろうか。キミと一緒にいた頃は本当に多くのものを貰った。物質的な意味もあるが、見えないものもそうだった。僕には無いものをキミは沢山持っていた。いつも瞳はキラキラしていて、自分の意志を持っていて、強くて優しい人だった。
思い出は物として形にできないけど、僕はあの時の楽しかった日々をずっと覚えてる。この先、キミと別れた秋を何度迎えても。
「……なんて、未練ったらしいか」
やっぱりあの朱いカーディガンは棄てよう。じゃなきゃ僕は決別できない。思い出は大事にするけれど、いつまでも縛られるのは良くない。まだ今年の秋は終わりじゃない。新しい服でも買いに行こうかな。今度は自分で朱いカーディガンを選ぼう。
じゃあいいよ。勝手にすれば。
そんなに私の話を聞いてくれないなら、これ以上一緒に居ても意味がない。
1人で何でもできると思ってんでしょ。そんなわけないじゃん。思い上がりすぎ。
今までどれだけ私が助けてきたと思ってんの?まさか全て忘れたわけ?恩知らず。
私の存在なんて、あんたにとったらその程度だったってわけね。
ってか、ほんとに私を見捨てる気なんだ?信じらんない。あんたって、そーゆう人だったんだね。最後の最後に知れて良かったよ。
もういいよ、さよなら、バーカ。
踵を返しても追いかけてきてはくれなかった。振り向くと私から遠ざかってゆく背中が見える。
後ろ姿がこんなにも大きいなんて。いつもいつも、先を歩くのは私だったから、こんなに成長していたことに気づかなかった。あぁ、そうか。体も心も成長して、もう一人でやっていけると確信したんだね。だから私から離れようとしている。もうあんたには私は必要ない。
でも。
それはあんたにとってはそうだろうけど、私にとっては違うんだよ、まだ。
私にはまだ、あんたが必要。
こっちを向いて。
行かないで。
「おいてかないで!!」
その言葉だけを、ただひたすら叫んだ。
馬鹿みたいにおいていかないでを大声で発した。でもこっちに振り向くことはなかった。声が枯れるまで何度も叫んで泣き喚いたけど、何をやっても無駄だった。これじゃまるで私が子供みたいだ。
これでもう、本当に終わり。
今やっと気づいた。
依存してたのは、私の方だった。
始まりはいつもここからだった。
いつもこの場所で、この歌を歌いながら朝日を見ていた。
上京すると決めたあの日も今と同じように日の出を見ていた。あたりがゆっくり朝焼けに染まる様子は泣きそうなほど美しかった。
あの感動を今も忘れていない。
綺麗なものを素直に綺麗と言える感情をずっと大切にしていたい。
また、出られなかった。
仕事を終えて携帯を確認すると1件の不在着信。時間はかれこれ数時間前のものだった。他にメールも受信していた。それを開く手は素早いものだけど気分はあまり良いものではない。だいたいの内容は見なくとも分かっていた。そして想像通りのものだった。
『毎日お疲れ様。寒くなってきたから風邪引かないようにね。今日はもう寝るね。おやすみなさい』
きっと、俺からの連絡を待っていたんだろう。けれどこの時間まで待っても返事がこないから今日は諦めたんだろう。先週もそうだった。その前の週も、その前も。いつも連絡をもらってもリアルタイムで反応することができない。ようやく日付が変わる頃に自由になれても彼女は眠りについてしまっている。そんな、すれ違う日々をかれこれ数ヶ月送っている。それでも彼女はほぼ毎日メールを送ってくる。内容はいつも俺を気にかける言葉ばかり。きっと不満や言いたいことはあるだろうに。マイナス的なことは一切言わない。
今かけても無駄だとは分かっているのに電話をかけた。案の定、コール音はどこまでも鳴り続けた。これ以上粘って起こしてしまいたくないので発信するのをやめる。代わりにメールの作成画面を開いた。だが文字を打つ指が止まってしまう。明日は必ずお前が起きてるうちに電話する。それさえも言えなくて、結局送った内容は電話に出られなかった謝罪とおやすみの一言だった。このメールを、明日の朝見た時彼女は何を思うだろうか。あぁまた声を聞けなかった、と思いながら朝から項垂れるのを想像すると胸が痛む。メールなんかじゃなく直接おやすみもおはようも伝えたいのに、そんな簡単なことさえもできない。
いや、できないと決めつけている時点でおかしい。そのせいで知らないうちに制限をかけてしまっているのだ。不可能なんて決めつけている自分がどこかにいる。それでは何も変わらない。
もう一度メールの画面を開く。
『仕事が終わったら会いに行く』
何時にどこで、なんて考える前に送った。ほぼ勢いだ。だがこれで一先ずは朝起きた彼女の顔が憂鬱になることはない。あとはどうにかして今日の予定を片付けてゆくしかない。タイムリミットはあと約23時間。送った内容を実現させるために今日1日を送るだけ。その笑顔を直接見れたなら、何も言わずに抱き締めたい。