今日で一週間。ここのところ毎日雨である。
「はあ…」
洗面所の鏡の前に立ち、わたしはため息をついた。
右手に握りしめたヘアアイロンがピピッと鳴る。
ストレートにしたはずの前髪が早くもうねり出すのを見て、わたしは再度大きなため息をついた。
もともと前髪だけくせが出やすく、扱いづらいわたしの髪の毛は、梅雨の時期になると更に扱いにくいじゃじゃ馬になる。毎朝毎朝懇切丁寧にストレートにして差し上げても5分で元通り。あっちこっちにうねりだす。
“前髪の安定は精神の安定”という言葉もあるほど、女子高生の前髪は精神の平穏に直結するのである。
「姉ちゃんまた前髪焼いてんの?」
後ろからわたしの顔を覗くのは、頭を2ミリに剃り上げた弟だ。
「どんだけ焼いても無駄でしょ。今日もすげえ雨だぜ」
なにを整える身だしなみがあるのか。ヘアアイロンを持って絶望する姉の横から鏡を覗き込み、自分の顔を確認した弟は行ってきますと洗面所を後にした。
わたしはヘアアイロンの電源を切り、鏡に向き合う。眉間に皺を寄せた前髪がうねった女が映る。
「…坊主か」
一つの選択肢かもしれない。
ああ、また透明になった。
わたしという存在は透明になることが多い。
今だってそうだ。
さっきまでわたしと話してくれていた同僚の鈴木さんは会話に加わってきた田崎さんと楽しげに喋っている。側から見ればわたしもお喋りの一員に見えるだろう。けれども実際は、まるでわたしの存在が透明になったかのように、彼女たちの視線はひとかけらもわたしに注がれない。透明になったわたしの言葉なんてきっと届いてないだろうけれど、わたしは置いていかれまいと必死に相槌を打つ。
「わかる〜」
「そうだよね」
「それある」
「たしかに〜」
声まで透明になってしまったのかというほど何の反応も示さない彼女たちを前に、わたしは心の中で大きなため息をついた。
突然の別れとは、その名の通り突然やってくるものだ。
春の日差しが差し込み、カーテンがゆるくたなびく部屋で、わたしは絶望の面持ちで床を眺めた。
「…どうしよう」
床に散らばる破片たちが日差しを反射してキラキラと輝く。
「…ありえない」
「あちゃ〜、それはもう修復不可じゃない?」
姉の無遠慮な物言いにわたしの中のなにかがブチっと切れる音がした。
「っそもそも!お姉ちゃんがテーブルの端っこに置いとくから!どうしてくれるの!!これ限定100個の超貴重なマグカップなんだよ!!しかも二個で一個のデザインになるやつ!!!一個割れたら意味ないじゃん!残された片方の気持ちも考えてよ!!ニコイチでずっとやってきた相棒が目の前で割れてこの子もショック受けてるのになんでそんなアッサリした態度とれるの!?相棒を失ってるんだよこの子は!!長年連れ添った相棒を…!」
歯を剥き出しにして怒るわたしをみた姉はゲンナリした顔で呟く。
「…オタクきも」
仕方がないだろう、オタクは元来気持ち悪い生き物なのだ。
「愛があればなんでもできる!」
そう言って毎日身を粉にして働いていた母は昨年アッサリと逝ってしまった。
借金を残して死んだ父への“愛”、“愛”する娘であるわたしの生活を守るため、“愛”に突き動かされていた母は馬車馬のように働き、働き、働き、そして死んだ。