遠い足音...
といえばあれですよね、気持ちの良い秋の日にハイキングで山に登る。
どこか遠く、少し上の方で、同じように枯れ枝を踏みながら、急坂なのか時どきペースが乱れたりしている足音が聞こえる。
ああ、もう1人先行している方がいるんだな、天気もいいし、とか思いながら、だんだん視界が開けてきて山頂に着く。あら、誰もいない。
しばらく待ったけど、誰も登ってこない。
登山道は一本なのに、誰ともすれ違ってない...
ってな話。
ちょっと怖くて不思議な話ですけど、今から思えば、あれは妻鹿さんがバリやってたんでしょ。
秋って、そろそろ来るかな、と思ってるうちにもうすっかり秋になってるパターンが好きらしい。
自宅で待ち構えているのに、いつの間にか来て不在票だけ入れてく佐川急便ほどは悪質ではないけど、あんたいつ来たんだよ、と問いただしたくなる。
永遠はないけれど、それは質量のあるものとか、それともエネルギーとして作用するものとか。
いずれにしても、最初のエネルギーを発したものは何か、無から何かが発したのかよ、というのと同じように、無くなった後に何が残るのか、無になっても何かを発しうるなら、背景にある「世界」は残って永遠なんじゃないかと思う。
(もちろん知らんけど。)
* 無から有は生まれない、生まれた段階で何か(因)があったことになるし、だから存在(果)がある段階で無はない、無にもならない、って話で、エネルギー保存則より一段深い何かがあるのか分からないけど。
コーヒーって、冷めないうちに飲まないとダメですよね。
最悪なのがコーヒーメーカーで作ってしばらくサーバーで保温されてたコーヒーで、すぐに嫌な苦味というかエグみが出て、あんなのお金払ってる客に出すもんじゃない。お代わり無料とかいうとこもあるけど、それ以前にあれは飲みたくないだろう。
だいたいイタリアやフランスでは高圧抽出のエスプレッソが主体だった。日本の緑茶の「玉露」について、「舌頭へぽたりと載せて 、清いものが四方へ散れば咽喉へ下るべき液はほとんどない 。ただ馥郁たる匂が食道から胃のなかへ沁み渡るのみである 」と表現した人がいるけれど、さしずめカフェ/カッフェ(エスプレッソ)の味わいもそんなところで、こちらは清いというかどろっ・ざらっと濁ってる。
これをドリップ式にしたドイツ、さらに入植時代に豆が手に入らないからって薄めて、ダイナーとかではサーバーなんてのも使って、面倒だからたくさん抽出して保温しとくスタイルにしたアメリカが悪い。
世界はその存在によって全く異なると考えてる。
例えばこの家屋の同じ敷地のなかでも、アリたちにとっては、理由も分からずただ働いて、カラスに食われたり、ヒトに踏み潰されたり、雨が降れば溺れたりする世界。蛇やゴキブリにとっては、なぜかヒトに嫌われていて、すぐに逃げないと棒で打たれたり。しかし飼い猫にとってはヒトに溺愛されて、餌を探す必要もなく、むしろ際限なく退屈で眠くなる世界。ヒトの子にとってはいろんな生き物がいて、アリを踏んだり、蛇を捕まえて振り回したり、ネコのヒゲを引っ張るのが楽しくて仕方がない。働くオトナにとっては毎日が同じ消化試合の日々。癌患者にとっては絶望の悲しみの日々。
同じ空の下で同じ光が照らしているこの世界そのものが、実は主体によって全く異なる世界で、理不尽だったり、敵意そのものだったり、恵まれていればむしろ退屈だし、真新しい興味で溢れていたり、絶望しかなかったりする。
(そこは共感できれば理解できるし、そこに共存や調和を持ち込めれば、世界はかなり意味合いを変えるのだけど、今回のオチはない。)