毛布

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6/13/2024, 1:00:55 AM

好き嫌いって、確か一つの感情の表裏だと聞いたことがある。自分にとって好ましいものを自分の空間にとどめておきたい、好ましくないものは自分の空間から排除したい。世界を管理したい。

これは相対的なものでもあって、さらにもっと好ましいものができると、今まで好きだったものがそうでもなくなる。すごく好きなもの、嫌いなものができれば、それ以外のことは好きも嫌いもどうでも良くなる。

だから、好きだけでなるべく嫌い(敵意)を抑圧することは難しいんだそうな。

6/11/2024, 12:06:39 PM

街にもヒトと同じで、その街の人柄というかマチ柄があると思う。
どうにも冷たくて結局馴染めなかった街、街そのものが意地が悪くて、いるだけで気分が悪いことが起こりがちな街、とても明るくて楽しくなるような街なのに、通りを一本隔てるとすごく陰鬱になる街、明るくて暖かくてどこか歓迎されているような、祝福の街。
そういえば、ある作家が移動祝祭日と表現した街も、素顔は意外と不潔で埃っぽくてケチ臭かったり。

人柄のいい街には、ときどき無性に行きたくなってしまうのも人間と同じ。

6/11/2024, 1:48:00 AM

やりたいことがない時期って、みなさんどうしてます?

別に日常生活は普通にやってるんですけど、さて連休が取れて自分の時間がありそうとかいう状況になると、じゃあ何をしようとか考えてしまうこと。
特にコロナ自粛が長かったせいもあって、もう身近なことでも意外と楽しく時間がつぶせるようになっていて、そこからわざわざやりたいことを捻り出して時間とおカネを使っても、それって本来はどうでもよかったことなんじゃないのかとか思ったら、そのままあらためて何もしないでも過ごせてしまう。
でもせっかくの休日だし勿体ないし。

取り敢えず未知の世界に自分を投げ出せば、そこから何か新しいものが与えられることも確かなのですが、それは実は場所とか何をするのかにも依存することではなくて、自分の「態度」がもたらすものなので、身近な日常からでも同じように何か新しいものはいくらでも受け取れる。

それに「世界観」から変わってしまうような体験を、不意打ちではなく意識的に自分で調達しようとすれば、環境そのものからがらりと変えるような、別の日常にシフトするくらいの大掛かりな舞台装置を持ってきて保険をかけることになりがちで、それにはそれなりの課金が必要になってくる。

コロナの活動制限で出不精というか、一度余計な活動を閉じてしまったこととか、それ以前に子供の頃のように、取り敢えず自転車に乗ってどっかに遊びに行くみたいな元気がなくなってしまっただけなんだろうな。

そうか、これってすっかり日常に飼い慣らされて、何かしようとしても自分でブロックしてたり、いろんな体験に対する舌もそこそこ肥えちゃって、おまけにいろいろと貧乏性になってるだけなのかもしれない。
(でも、これも結局解釈と表現の問題で、日常がそこそこ充実してれば別に目新しい刺激なんか求めなくてもいいのに、ただぐずぐず言いたいだけなんじゃないか?)

6/9/2024, 1:43:00 AM

岐路って、どちらに行っても条件も結果も似たようなもので、どっちを選んでも気楽な岐路なんてのはお散歩ぐらいで、右の陽当たりのいい道か、左の木立ちが涼しそうな道か、どちらも選べるしハプニングも楽しい。

でも、気楽な岐路なんてのは無意識に選んじゃうくらいで問題にならなくて、わざわざ「岐路」と言った時には、それは自分の利害や価値観が絡んで気楽になれない「岐路」のことで、それはそもそも列車のポイントみたいに強引に進路が変えられたり、自分で選べるなら真剣に打算を張り巡らせたり、むしろ失うものの方を見積もったり、結局最後には条件だけではなくその時の「信念」(意気込み?)なんかで決めたりする。だから、そこから嫌なことが起こればしっかりぐずぐずと、いつまでも後悔もしがち。
選択されなかったもう一つの路も、結果的には嫌な面が見えない「観念」になってしまうので、現実逃避を受け容れやすい。

よく、岐路が来たら条件の悪い方を選べとか言われるけれど、それはそれがたまたまいい選択だった人か、選択にあたって自分の価値観を一度無効化できて、その選択の結果も受け容れて後悔なんてせず、しっかりと良い結末を作っていける実力者にしか言えないことだろうなと思う。
(それじゃあ、条件が悪いけれど必要な選択をした人に、人生というか社会が必ず何らかの意味で報いてくれるのか?それは期待してはいけないし、それこそ宗教じみた信念になりそう。)

自分(の価値観)にとって重要だと思う岐路がくれば、真剣に選択を迷うし、迷えば最終的にその時の信念(意気込み)なんかで決めてしまいがちで、その結果がうまく行かなかったり、嫌なことが起こるだけでもぐずぐずと後悔していくのが人間なのだと思う。
きちんと比較検討して、一度価値観もいろいろと多面的に相対化してから、その選択の結果をなるべく後悔しないのが、必要以上に重たいものを背負いこまない方法なのでしょうか。

つまりカエサルもあそこで負けてたかもしれないし、それでもサイコロ振ったのはカエサルだからですね。
(そこから大泉・鈴井みたいに、待ちかまえたように愚痴・悪態だらけになるのも、しっかり楽しいのですが。)

6/8/2024, 1:39:12 AM

世界の終わりに何をするのか考えるのって、その人の本質がいろいろと分かってしまう、大切だけどけっこう難しい問題じゃないですか。自分の価値観やセンス、もしくは欲望や抑圧してきたものがしっかり出てくるわけで。
本気で考えて、一緒に何何を食べたいとか、どこそこで過ごしたいとか、うっかり真面目に口にしたら、「あら、ふーん…(冷たい目)」とかされたりして、これはもう立ち直れませんよ。
それに最悪の場合には、いくら考えても何も思いつかないとかいう救いようのない虚無に直面するかもしれませんし。

でも、もしも世界の終わりが予測できて計画できるなら、たぶんその時世の中はもう大混乱で、無政府状態の地獄ですよね。
世界の終わりには、静かな部屋でとっておきのヴィンテージワインをあけて、しばらく一緒に静かな時間を...なんてのはたぶん無理で、「少しでも生存可能性が高くて人的災害のない安全な場所を探して避難する」の一択になるんじゃないですかね。














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しかし「世界の終わり」って、いきなり世界が消滅したり、突然地球が崩壊する状況はまずなくて、結局は自分の世界が終わる。せいぜい隕石や爆弾が降ってきてその周辺地域が一気に消滅することがありうるかどうか、そうでもなければつまり世界の終わりは個人の終焉、自分の死なんだと思う。
だからその終焉を他者と共有することはなくて、他者の方ではその世界が続いていくし、そこから先はもうその他者の終焉は自分には共有できない。
せめて各自の終焉に寄り添うことができるのかどうかだけど、自分が寄り添う状況とはつまり他者が先になっただけで、やっぱり自分には終焉を共有できず自分の「世界」は続いていく。
終焉はその状況や条件に依存した個人のもので、共有はできないものだろう。

ここで、確かに「この世界の終わりを一緒に」には心中めいたロマンはあるけれど、そういう文化的な背景から考えても、心中には「現世から一緒に消滅してこれ以上他者から干渉されなくなる」ことに意味があるのかもしれないけれど、でもそれもそこまでといえばそこまでで、行った先の地獄で一緒に過ごせるとはまず思えないし、そこから共有される世界が始まることはなく、それ以上は意味はあんまりなさそう。

「世界」は「舞台」のような場なので、社会の方は必ず誰かに、世界は何があっても、終わらずにいろいろと続いていくだろうことだけが確かな救い。

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