毛布

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世界の終わりに何をするのか考えるのって、その人の本質がいろいろと分かってしまう、大切だけどけっこう難しい問題じゃないですか。自分の価値観やセンス、もしくは欲望や抑圧してきたものがしっかり出てくるわけで。
本気で考えて、一緒に何何を食べたいとか、どこそこで過ごしたいとか、うっかり真面目に口にしたら、「あら、ふーん…(冷たい目)」とかされたりして、これはもう立ち直れませんよ。
それに最悪の場合には、いくら考えても何も思いつかないとかいう救いようのない虚無に直面するかもしれませんし。

でも、もしも世界の終わりが予測できて計画できるなら、たぶんその時世の中はもう大混乱で、無政府状態の地獄ですよね。
世界の終わりには、静かな部屋でとっておきのヴィンテージワインをあけて、しばらく一緒に静かな時間を...なんてのはたぶん無理で、「少しでも生存可能性が高くて人的災害のない安全な場所を探して避難する」の一択になるんじゃないですかね。














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しかし「世界の終わり」って、いきなり世界が消滅したり、突然地球が崩壊する状況はまずなくて、結局は自分の世界が終わる。せいぜい隕石や爆弾が降ってきてその周辺地域が一気に消滅することがありうるかどうか、そうでもなければつまり世界の終わりは個人の終焉、自分の死なんだと思う。
だからその終焉を他者と共有することはなくて、他者の方ではその世界が続いていくし、そこから先はもうその他者の終焉は自分には共有できない。
せめて各自の終焉に寄り添うことができるのかどうかだけど、自分が寄り添う状況とはつまり他者が先になっただけで、やっぱり自分には終焉を共有できず自分の「世界」は続いていく。
終焉はその状況や条件に依存した個人のもので、共有はできないものだろう。

ここで、確かに「この世界の終わりを一緒に」には心中めいたロマンはあるけれど、そういう文化的な背景から考えても、心中には「現世から一緒に消滅してこれ以上他者から干渉されなくなる」ことに意味があるのかもしれないけれど、でもそれもそこまでといえばそこまでで、行った先の地獄で一緒に過ごせるとはまず思えないし、そこから共有される世界が始まることはなく、それ以上は意味はあんまりなさそう。

「世界」は「舞台」のような場なので、社会の方は必ず誰かに、世界は何があっても、終わらずにいろいろと続いていくだろうことだけが確かな救い。

6/8/2024, 1:39:12 AM