毛布

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岐路って、どちらに行っても条件も結果も似たようなもので、どっちを選んでも気楽な岐路なんてのはお散歩ぐらいで、右の陽当たりのいい道か、左の木立ちが涼しそうな道か、どちらも選べるしハプニングも楽しい。

でも、気楽な岐路なんてのは無意識に選んじゃうくらいで問題にならなくて、わざわざ「岐路」と言った時には、それは自分の利害や価値観が絡んで気楽になれない「岐路」のことで、それはそもそも列車のポイントみたいに強引に進路が変えられたり、自分で選べるなら真剣に打算を張り巡らせたり、むしろ失うものの方を見積もったり、結局最後には条件だけではなくその時の「信念」(意気込み?)なんかで決めたりする。だから、そこから嫌なことが起こればしっかりぐずぐずと、いつまでも後悔もしがち。
選択されなかったもう一つの路も、結果的には嫌な面が見えない「観念」になってしまうので、現実逃避を受け容れやすい。

よく、岐路が来たら条件の悪い方を選べとか言われるけれど、それはそれがたまたまいい選択だった人か、選択にあたって自分の価値観を一度無効化できて、その選択の結果も受け容れて後悔なんてせず、しっかりと良い結末を作っていける実力者にしか言えないことだろうなと思う。
(それじゃあ、条件が悪いけれど必要な選択をした人に、人生というか社会が必ず何らかの意味で報いてくれるのか?それは期待してはいけないし、それこそ宗教じみた信念になりそう。)

自分(の価値観)にとって重要だと思う岐路がくれば、真剣に選択を迷うし、迷えば最終的にその時の信念(意気込み)なんかで決めてしまいがちで、その結果がうまく行かなかったり、嫌なことが起こるだけでもぐずぐずと後悔していくのが人間なのだと思う。
きちんと比較検討して、一度価値観もいろいろと多面的に相対化してから、その選択の結果をなるべく後悔しないのが、必要以上に重たいものを背負いこまない方法なのでしょうか。

つまりカエサルもあそこで負けてたかもしれないし、それでもサイコロ振ったのはカエサルだからですね。
(そこから大泉・鈴井みたいに、待ちかまえたように愚痴・悪態だらけになるのも、しっかり楽しいのですが。)

6/9/2024, 1:43:00 AM