「あなたが選んだ方法は、それなの?」
「僕が…正しいと思う方法だよ、これが」
「じゃあ、それで進めるね。後悔しないでね」
「後悔なんて…愚か者のすることだ」
「…そうかな。後悔することで人は成長するんだと思うけど」
「成功することでしか、人は幸せになれないんだよ」
「寂しいね。そんな風に考えるなんて」
「僕は平気だよ。ずっとそれで生きてきたから」
夏の夕暮れ。
縁側で二人、遠雷を感じている。
何かが狂い始めた。
少しずつ、少しずつ、二人のもとに嵐が近付いてきていた。
雨が降り出し、空が黒に染まり、雷鳴が遠く轟く。
重い風が吹きつけ、暑さが少し和らいだ。
僕達がともに過ごす夏は、これが最後になる。
「今年の夏はね、台風が少ないってテレビで言ってたよ」
「そんなの、ほとんど当たらないよ。今日の天気だって怪しいんだから」
「私たちがこうなることは、予測できた?」
「出来るわけないだろ。出来てたら結婚なんてしなかった」
「結婚したこと、後悔してるんじゃないの?」
「だから、後悔なんてしないって。この結婚は、失敗だったんだ、ただそれだけ」
「だから、取り消して成功に変えるんだね。それが一番正しい方法だと」
「…他に、ある?」
「…ないね」
縁側には、二人で座るためのデッキチェアが置かれていた。
もっと涼しくて陽気のイイ日には、二人並んで座って縁側で本を読んだ。
僕は推理小説、君は空想科学小説。
二人、まったく違う世界にトリップして、その世界の諸事に没頭した。
思えば、もともと僕達は、同じ世界には住めない存在だったのかもしれない。
このデッキチェアも、まもなく処分する予定だ。
雷が近付いてくる。
遠かった雷鳴が、僕達の頭上で聞こえている。
窓の外は暗く、雨音はザーザーと雷鳴と張り合うかのように。
こんな日の読書も悪くなかったかな、なんて、少しだけ後悔のような気持ちが心を過ぎったが、打ち消した。
決して後悔なんてしない。
「じゃあ、ありがとね。家財の分別とか、細かい話はお互い落ち着いたらでいいよね」
「うん、それでいいよ」
「このデッキチェア、私はもらっていくね。これからもこれで読書したいし」
「そう…なんだ。別にいいけど」
「あなたは必要ないの?壊れてるわけでもないのに」
「必要ないっていうか…これは、君と二人で使うものだったから、いろいろ思い出しちゃうし…」
「…そっか。そんな気持ちになるんだね。何だか嬉しいよ」
「なんでだよ。君との思い出を消そうとしてるのに」
「そうだけど…まあ、いいや。それよりさ、お腹空かない?そうめんでも食べる?」
二人で向かい合ってそうめんを食べた。
雷雨は通り過ぎ、再び遠雷となる。
僕達に訪れた嵐も、じっと待ち続ければいつか雨は上がったのだろうか。
荒れまくる雷雲は通り過ぎたが、僕達の中で、ずっと降り続ける雨。
どんな傘をさしても、心に染みてくる雨粒。
これを、取り除かなくてはと思った。
濡れて広がる不安を、そのままにしておけなかった。
すべては僕の、エゴだったのかもしれない。
だけど、後悔なんてしない。
そうめんを食べ終えて、君にさよならを伝えた。
君は頷いて、僕に握手を求めた。
久し振りに握る君の手は、悲しいほどに冷たかった。
Midnight Blue.
深夜の青。直訳。
何だろ?
明け方の青だったら何となくイメージ出来るけど。
深夜に青く光るものと言ったら、信号機かな。
深夜、誰もいない交差点で、静かに灯る信号機の青。
なんか物悲しい。
誰がために灯しているのか。
突然、静寂を打ち破り、猛スピードのバイクが走り去ってゆく。
街を抜け、海へと続く道をひた走る。
ライダーの目に映る、深夜に灯る青。
すべてを失った彼を導くような、誘導灯にも見える。
一列に並び、深い夜の底へと彼を誘う。
もう、堕ちていくしかないのかな。
彼は、友からの信頼と恋人からの愛情を、同時に失った。
アクセルを緩めぬまま、交差点へと進入する。
もはや、信号の色など意識の外にある。
夜の暗闇を薄く照らす青に包まれて、安堵と不安と悲しみが心を満たす。
Midnight Blue.
何故あの時、あいつを疑ったのだろう。
何故あの時、あいつを許さなかったのだろう。
ジャッジメントは赤に変わり、俺のもとから彼らを遠ざけた。
次の交差点で、赤信号を無視したバイクは、横から走ってきた大型トラックに追突され、跳ね飛ばされる。
ライダーの頭を巡る、走馬灯。
ああ、幸せだったんだな。
ヘルメットの中の彼の表情は、笑顔だった。
そして交差点には、再び Midnight Blue が訪れる。
たくさんの緊急車両が駆けつけ、辺りが真っ赤に染められるまで。
もう、耐えられないんだ。
ここにはいられない。環境が悪すぎる。
衛生的にも、スペース的にも、限界なんだ。
僕達は搾取される運命だって誰かが言ってたけど、そんなの認めない。
僕達にだって、自由に生きる権利がある。
知ってるかい?
僕達にはまだ子供がいないけど、ここで生まれた子供達があいつらに連れ去られていることを。
何故って…それは分からない。
あいつらとは体の作りもまるで違うから、興味があるのかもしれないね。
イジメられてるんじゃないかって…確かに、それで子供達が殻に閉じこもるようになったら、可哀そうだね。
でもさ、僕達だって皆、殻を破って飛び出したおかげで、今がある。
行動が必要なんだと思うよ。
こんな狭い場所に閉じ込められていたら、それこそ羽を伸ばしてリラックスすることすら出来ない。
僕達は誰にでも、飛び立てる翼があるんだ。
飛べないなんて勝手な思い込みは捨てて、さあ、羽を広げよう。
そして今、君と飛び立つ。
「お父さん、大変だ。鶏舎から二羽、逃げ出したみたいだよ。ほら、あんなところを飛んでる」
少年は、まもなく永遠の眠りにつく。
お父さん、お母さん、僕は決して不幸なんかじゃないんだよ。
あなた達のおかげで、この世界を見ることができた。
知ることができた。
触れて、嗅いで、味わって。
あなた達の決断ひとつで、僕はこれらのことをすべて諦めなければいけなかったんだ。
あなた達が、こんな僕をこの世界に生み出す覚悟を持ってくれなかったら。
早すぎるサヨナラが悲しいからと、二人だけで生きていく決意を固めてしまったら。
僕は、こんなに素晴らしい世界があることも知らずに、夢の中で過ごすことになっていたと思う。
たった一度だけ、河原でバーベキューをしたよね。
他の子達のように川で泳ぎたかったけど、それは無理だった。
自然の川にだって、たくさんの細菌がいる。
僕は、それらに打ち勝つことができないから。
だけど、自然の中で食べたトウモロコシは本当に美味しかったんだ。
また行きたいけど、もっと生きたいけど、僕は目に見えないような細菌にも負けてしまうから。
でも、きっと忘れない。
あなた達のもとで過ごした、命ある日々を。
生まれてくる場所は選べないけど、ここで良かった。
それは、あなた達に出会えたから。
あなた達の記憶に残れるから。
僕という、異端分子を、壊れものを、不良品を、どうか、忘れないで。
僕はきっと忘れない。
少年は、まもなく永遠の眠りにつく。
医者として、出来ることはもう何もない。
この手紙を託されたが、未だ両親とも到着せず、私は、この手紙を渡すべきかどうかすら決められないでいる。
母親は、彼のいないところで、「産んで後悔している」と言っていた。
父親は、仕事が忙しいので、そう頻繁に病院には通えない、経済的にも厳しい、と言っていた。
私の勝手な決断だった。
手紙を大切に折りたたみ、私のデスクの引き出しの奥の方にしまった。
きっと彼は、それを知ったら私を恨むだろう。
彼の中で、幸せと感謝を伝えたい相手は、両親以外にはいないはずだ。
だが私は、私の中で、どうしても許せない何かがあった。
これは私のエゴだ。
そして、私の中の正義でもある。
その日の夜遅く、少年は息を引き取った。
そこまで頑張った少年のおかげで両親は彼を看取ることが出来たが、私は彼らの表情にどこか安堵のようなものを感じてしまうことを否めなかった。
私の勝手な思い込みだろう。
自分の子供を愛さない親などいない。
そうは思っても、あの手紙は今も、私のデスクの引き出しの中にある。
私は彼を忘れない。
彼の生死に関与した者として、私は彼を記憶し続ける。
彼がたとえ真実を知って、私を恨んでいるとしても。
あの手紙が、私のデスクの引き出しに眠っている限り、私はきっと忘れない。
涙の理由は、大切なものを失ったから。
とても大切にしていた、手帳。
今までの、あなたとの日々を綴った日記帳でもあった。
それが、あの火事で燃えてしまった。
こんなに悲しいことがあるだろうか。
なぜ泣くの?と聞かれたから、私はそう答えた。
だけど、あなたも旦那様も無事だったし、火事だってボヤで済んだんだから、そんなに悲観的になることもないじゃない、と友達は言う。
新しい思い出をこれからたくさん作って、またそれを記録していけば、いつかまた大切な手帳が出来上がるしね、とも言った。
違う。そんなんじゃない。
夫はあの手帳を読んだのだろう。
だから家に火をつけた。
私を殺すつもりだったのかもしれない。
煙に気付き、私は慌てて逃げ出した。
まだ、計画は実行していないのに何故?と思いながら。
あなたとの思い出を綴った手帳は燃えてしまった。
あの手帳を読んだ夫は、生き延びた私をどうするつもりなのだろう。
もう、あなたに会うことは叶わないのだろうか。
もう一度、チャンスが欲しい。
あなたとの新しい思い出を、これからもたくさん作れるようになるチャンスを。
「…そっか、次は私の番だよね」
なぜ笑ってるの?と聞かれたから、私はそう答えた。