余計なことは考えずに、もう飛び降りるしかない。
追い詰められて、もう逃げ道なんかないんだ。
見下ろせば、地上は遥か遠く、叩きつけられたらひとたまりもないだろう。
それでももう、残された時間はなく、あとは私が一歩踏み出すだけ。
私が飛び降りたら、きっと皆は好奇の目を向けるだろう。
スマホで撮影する人もいるかもしれない。
きっと皆が笑いながら、私に「早く飛べ!」と思っているんだ。
早く飛び降りるところを見せろと。
本当は、誰かに止めて欲しかった。
私の弱い心を見抜いて、そばに寄り添って欲しかった。
でももう、手遅れなんだ。
飛び降りるしかない。
意を決して、その一歩を踏み出す。
周りの皆が、声を揃えて私の飛び降りを促す。
「3、2、1、バンジー!」
明日、Special Day。
三連休の中日だってのに、何の面白みもない投票所に向かわなければならない。
この暑さの中を。
だけど、日本の未来がかかっている。
自分達が生きる未来だ。
もうどうなってもいいや、とは言えない。
そう思ってきたツケが今、この日本を生きづらくしてしまった。
責任は我々にある。
それに気付けたのは、SNSのおかげかもしれない。
希望を我々が担っていることも。
それを委ねられている現実に、感謝すべきかもしれない。
このBig Deal Gameに参加しよう。
そのスコアは、夜には分かる。
参加してこそ、その結果に一喜一憂することが出来る。
PSもSwitchもいらない、国民全員参加型のゲームだ。
そしてこのゲームの勝利者には、安心して暮らせる未来が待っている、はずだ。
だから明日は、Special Day。
朝イチで投票所に行って、その後は家族でどこかへ遊びに行こう。
夜に訪れる朗報を信じて。
足元に野良犬が寄ってきた。
私の足の匂いをクンクンと嗅いで、つまらなそうに去っていく。
風に揺れる木陰で、あの人が来てくれるのを、首を長くして待っている。
気が遠くなるほど。
喧嘩をしたのはいつのことだったか。
あんなに怒りに震えてこの場所に来てから、もうどれくらい時が経つのだろう。
怒りに任せて、この木陰で首を吊った。
あれからずっと、この木陰で揺れている。
今になって、あの人の浮気は、自分の勘違いだったんじゃないかとか、話し合ってもう一度やり直すことも出来たんじゃないかとか、都合のいいことばかり考えるけれど、私はもう、この木陰で揺れ続けることしか出来ない。
さっきの野良犬がまた戻ってきて、私を吊り下げてくれている木にオシッコをした。
おいお前、私とこの木は一心同体なんだ。
マーキングするのはやめてくれ。
願わくば、あの人に、今の私のこの状況を伝えてくれないか。
あの人に、謝罪する機会をくれないか。
…首吊り死体に謝罪されてもな。
これじゃ、土下座をすることも出来ない。
上から目線で、ゆらゆらと揺れながら。
おいワンコ、今の私の姿はどんな感じだ?
あの人に愛されていた頃の私と、どう違う?
あの人への想いは、何ひとつ変わっていないのに。
今日も日が暮れてきた。
風も止んで、私の体の揺れも治まった。
野良犬には、ねぐらがあるのだろうか。姿を消した。
さて今夜も、一人反省会を始めよう。
誰にも邪魔されず、気が遠くなるほどの静けさの中で。
誰かが、この木と私の繋がりを断ち切ってくれる、その日まで。
大空を、巨大なクラゲが横切ってゆく。
半透明なその姿は、背景の青を透かしてレースのカーテンのように揺らめいている。
青い海を泳いでいる時も、こんな感じなのだろうか。
マンションのベランダでタバコを吸いながら、向かいのマンションの上層階を飲み込むほどの巨大な海洋生物を眺め、明日のプレゼンのことを考えていた。
きっとまた、頭ごなしに却下されるのだろう。
あの上司は俺を嫌ってる。
最初から説明を聞く気なんて無いんだ。
いっそのこと、白紙の資料でも配ってみようか。
何も考えつきませんでした。
この資料が私の頭の中の状態です、なんて。
クラゲがゆっくりと旋回する。
風に流されているのか、その風向きが変わったのか、まっすぐこちらへと向かってくる。
ベランダが、真っ白い世界に包まれた。半透明だ。
タバコの火が、ジュッと音を立てて消える。
少しだけ、空気が冷たくなったように感じる。
遠くに、波の音が聞こえたような気がした。
…そうか、お前も帰りたいんだな。
あの青い海へ。
同じ色につられて、この空に迷い込んだ。
海深く潜るつもりが、空高く浮かび上がり、太陽の熱にさらされて巨大化してしまった。
もう、あの海に還ることはないだろう。
お前は、空に漂う存在となってしまったから。
再び風向きは変わり、クラゲは都心の方へと離れてゆく。
きっと、まもなくこの熱に溶けて、その姿を消してしまうだろう。
空に浮かぶ白い雲が、跡形もなく消え去るように。
そしてそこには、青い空だけが広がっている。
脳裏に浮かぶ白紙の資料が、真っ青に染められていく光景を思い描いていた。
新しいタバコに火をつけて、明日のプレゼンのことを考える。
真っ青な資料をプロジェクターで投影して、薄暗い部屋を空や海の青さで満たして、これが私の頭の中の状態です、なんて。
そんな白昼夢。
二人だけの世界。
二人だけの電車。
混み合った車内で、身をくねらせてイチャつきあう二人。
何とも幸せそうだ。
こちらは、仕事帰りのサラリーマン。
目の前で繰り広げられる盲目的なラブ&タッチに、スマホに集中しつつ、意識が撹乱される。
耳にイヤフォンを突っ込み、お気に入りの曲を流して、こちらはこちらで一人だけの世界に入り込もうとするが、ぶつかってくるかと思われるほどに身を揺らしボディタッチを繰り返す二人に、言いたいことはひとつだけ。
場所をわきまえろ。
お前らの愛は祝福する。
だが、見せつけられる筋合いはない。
俺達の勝手だとか言うんなら、その自分勝手は自分達だけの場所でやれ。
誰も邪魔しない。
恥ずかしい、という感情は、人間にとって大切なんだな。
善悪とは違うところで、人の暴走を止めてくれる。
愛の深さと所構わずは比例しちゃいけない。
深い愛があればこそ、パートナーも含めて他人の中で生きていることを尊重して欲しい。
世界が滅んで、二人だけの世界に生きるなら話は別だが。
電車は走る。
二人は変わらず愛を深め合う。
これがもし我が娘だったら、と考える。
人の恋路に説教するつもりはないが、遺伝子の存在に疑問を持つだろう。
世の中は変わってゆく。
それは仕方のないこととして、理性の薄れてゆく世界の行く末を思う。
暑かったら全裸になるか?人前で排泄するか?
それを望むなら、人として生まれて来なければ良かったのに。
今日も我が家の猫は、全裸でトイレを済ませた後、身をくねらせてイチャつきあっている。
何とも幸せそうだ。
…二匹ともオスだが。