風鈴。
あんなもので、この夏の暑さをしのげるわけもない。
見た目や音は綺麗だが、何の冷却装置もないんだから。
当時は、あんなんで涼が取れていたんだろうか。
それは羨ましい。
その当時に生きていた自分が羨ましい。
夏は嫌いじゃなかった。
カブトムシの季節だった。
市民プールは学校のプールより深さがあって、不安と冒険心が疼いた。
毎朝のラジオ体操は嫌だったけど、学校以外で会えるクラスメート達が新鮮だった。
すべて今は遠い昔。
夏は変わってしまった。
…いや、変わったのは自分の方か。
今も子供達はカブトムシを探し、市民プールで泳ぎ、ラジオ体操に通っているのだろうか。
いや、我が子達にはなかったな、そんな夏休み。
そして、風鈴なんて、もう何年も見ていない。
風鈴の音…案外、今聞いてみたら、心が涼んだりして。
その澄んだ音色。軽やかな佇まい。
そんな風情が満載だった、あの頃の夏。
チリリン、ってね。
物悲しく、夏の儚さでもある、風鈴の音。
今は、ガンガン働くエアコンと扇風機の音。
そして、時折鳴るスマホの着信音。
ピコリン、ってね。
逃げたくなる気持ち、分かるだろ?
この狂った夏の暑さ、もう嫌なんだよ。
命が削られていく気がしてる。
それでも日々、この炎天下に立って、たくさんの人達をお出迎えだ。
ここが私の職場だから。
離れるわけにはいかない。
60歳にもなって、こんな試練が待っていたとは。
事業には成功したはずだが、この暑さは想定外だった。
スーツの上着くらい脱ぎたいもんだが、これが私のトレードマークでもあるから、このスタイルを変えるわけにもいかないんだ。
こうなると、もはやお客様の笑顔だけが心の支え。
ご満足いただけましたか?
私の名前は、ハーランド・デイヴィッド・サンダーズ。
皆には、もうひとつの名前の方が知られているのかな。
いずれにせよ、この姿をたくさんの人に認知され、ここに私がいなくちゃおかしい、という状況を作り上げた。
だから、ここを離れるわけにはいかない。
白いスーツを着て、杖を腕にかけて、直立不動で耐えるしかない。
苦肉の策で、心だけ、逃避行。
いつかの記憶で、道頓堀。
何故か皆に祝福されて、冷たい川の水の中へ。
その後しばらく職場には戻ってこれなかったけど、今なら川に飛び込むのも悪くないな。
それほどの暑さだよ。この国の夏。
こんな暑さの中でこそ、レッドホットチキンはいかがですか?
今までこうやって生きてきた
波風立てずに冒険もせずに
そのおかげで無事に大人になって
なんの変哲も無い ただの男を生きてる
命懸けのスリルなんていらない
願わくば健康に長生きしたい
その願いは叶って大きなケガも無く
メタボだけ気にしてる そんな俺の毎日
一歩踏み出すトライアル
臆せずに進め 喜びはそこにある
自分を好きになるために
人生をカラフルに変えるために
いつだってトライアル ここがその一歩
世界はそんなに複雑じゃない
道なき未知は成長のためにある
だからトライアル 喜びはそこにある
そして明日は 今日とは違う自分になる
一歩踏み出せトライアル
波風立てて 海原を突き進め
心の中の羅針盤で
地図は持たずに方角だけ決めて
今日もトライアル 向かい合うスリル
世界は冒険のためのステージ
自分で作り出してゆくアトラクション
そうさトライアル 喜びはそこにある
空を仰ぐ。
この青い空の下、その何処かにいる誰か。
あなたが今日も、頑張って働いてくれるおかげで、この世界は安心できる場所になる。
だから私も、あなたが安心して暮らせる毎日のために、自分がやるべき仕事をちゃんとやろうと思う。
ただ、それだけ。
ただそれだけで、この世界は昨日よりも優しい今日になり、そして明日も。
頑張ってるよ。
あなたが頑張ってくれているから。
あなたの頑張りは、生きるのがつらい誰かの心も癒してくれる。
私もそうでありたい。
この仕事がそこに直結しなくても、回り回って、巡り巡って。
その誰かの笑顔が、また誰かの笑顔を生むように。
この空のように、どこまでも広がってゆく、想い。
きっと届いて…あなたのもとへ。
あの日の景色を、私はテレビの中でしか見ていない。
栄華を誇る双子ビルに、たくさんの人を乗せた旅客機が突っ込んでゆく。
ビルの中にもたくさんの人がいただろう。
そこから煙が上がり、紙吹雪のように舞う資料や、外壁材、そして、人。
当時、六畳二間のアパートで、呆けたように画面を見つめていた。
何が起こっているんだ?
こんなことが起きたら、人がたくさん死ぬじゃないか。
絶対に起きちゃいけないことじゃないか。
だが、それは現実に起こっていた。
たくさんの人達が、死んでゆく。
その光景を目の当たりにしていた。
そして、呆然としている私たちの目の前で、そのビルは崩れ去った。
あの日の景色。
職場のビルが大きく揺れた。
だが、そのしばらく後、テレビの画面に映し出されたのは、たくさんの家や車が流されていく映像。
隣で同じ光景を見ていた同僚は、
「これ、日本で起きてるわけじゃないよな?」
そう言って、静かに仕事に戻っていった。
だがそれは、東北近海で起きた地震により発生した津波に飲み込まれて、為すすべもなく失われてゆく、命だった。
これらの景色を、私はしっかりとこの目で見た。
だけど、それはテレビ画面の中での出来事。
私はその場にいなかった。
でも、あそこにはたくさんの人達がいたんだ。
起きてはいけない出来事が起きている場所に。
一瞬にして大切な命が奪われる場所に。
私には、あの日見た景色を忘れずにいることくらいしか出来ない。
いや、忘れることなど出来ないだろう、あの日の景色を。