今でも思うんだ。
もしも君が、あの時、車道に飛び出してきたりしなければ。
僕の運転する車の前に、突然飛び出してきたりしなければ。
僕の運転では、君を避けることが出来なかった。
あとで知ったところによると、歩道を歩いていた酔っぱらいの男にぶつかられて、君はよろけ、車道に飛び出してしまったという。
それも運命だったと片付けるには、あまりにも僕の人生を大きく変える出来事だった。
そして、君の人生も。
君にぶつかった男は、君が僕の車に跳ねられるのを見て、慌てて逃げていったらしい。
もしも彼に、どこかで出会うことがあるのなら。
いったい何を伝えるだろう。
あなたのおかげで…いや、それはちょっと違うか。
でも、今では彼を見つけ出したい気持ちも大きくなってきた。
まさか彼も、こんなことになるとは思いもしなかっただろう。
運命のいたずらが、こんなことを引き起こすとは。
君の両親にも会いに行ったよ。
彼らから、君を奪ってしまったことに大きな罪悪感を感じていた。
だから僕は、君の父親の前で、必死に頭を下げた。
きっと君は、彼らの宝物だったろう。
それを僕は奪ってしまったんだ。
でも、君の両親は、許してくれたよ。
悲しいけどこれは、仕方のないことなんだ、と。
これからは君が、その責任を感じて生きていってほしい、と。
もしも君が、あの時、車道に飛び出してきたりしなければ。
僕の運転する車の前に、突然飛び出してきたりしなければ。
僕達二人は、結ばれることもなかっただろう。
ケガをした君を介抱し、病院まで車で運び、治療して入院となった君を、毎日のように見舞った。
そしてそのうち、お互いに恋心が芽生え、退院とともに交際を始めて、来月には結婚する運びになっている。
だから、酔っぱらいの彼には感謝したいくらいなんだ。
君と僕を引き合わせてくれたことを。
そして、僕たちの結婚を許してくれた君の両親にも感謝してる。
事故の件では彼らを心配させてしまったけど、もう二度と君を傷付けたりしないと、心から誓うよ。
必ず君を、幸せにする、と。
その部屋には静かにピアノの旋律が流れていた。
「素敵な曲ですね」
私の言葉に、目の前のソファに座る彼女は、薄く微笑んで答える。
「私の恋人が作ってくれた曲なんです。私だけのために」
「恋人が?それは素晴らしい。彼氏さんは、音楽をやってらっしゃる方なんですか?」
「ええ、ピアニストでした」
「…でした?」
「先日、事故で亡くなったんです。この曲を完成させて、まもなくのことでした」
「それは…すみません。お辛かったでしょうね」
「ええ…でもね、彼は今でも、この曲で私を包んでくれています。あの頃と同じように」
「なるほど。彼の忘れ形見ってことですね。…ずっと聴いていらっしゃる?」
「ええ、ずっと。この曲が聴こえないと、私は死んでしまいますから」
「それは…思いが強すぎるのでは?」
「いいえ、私には聞こえるんです。彼がこのメロディに乗せて、私に伝えてくれるメッセージが」
「彼は…何と?」
「君がこの曲を聴くのをやめたら、僕のところにおいでって」
「そんな…気のせいですよ。そんな風に聞こえてしまうだけで」
「メッセージはもうひとつ…君以外の人がこの曲を聴いたら、僕のところに呼び寄せるよって」
「…え?」
「私の家族が三人、立て続けに亡くなりました。だからあなたを呼んだんです、葬儀屋さん」
ピアノの旋律が、少し乱れたような気がした。
I love 休日の朝。
目覚めた後で、「今日は仕事に行かなくていいんだ」と気付く瞬間。
特に何の予定もない休日でも、何もないという余裕を感じられるのが嬉しい。
今すぐ起きて好きなことしてもいいし、このまま好きなだけ寝てるのも悪くない。
何かに縛られない一日の始まりを、心から愛してる。
でもまあ、この喜びも、日々仕事に行って働いてるからこそ得られるもんなんだろうな。
そのギャップが大きければ大きいほど、打ち震えるような喜びを感じる。
毎日がお休みで、それが当たり前になれば、今のような幸せを感じるのは難しいだろう。
当たり前に人はさほど喜ばない。だって当たり前だから。
I love 仕事、な人になれれば、こんな後ろ向きなことを考えずにいられるのか。
そんな人いるのか⋯まあ、いるか。
そーゆー人は、休日を疎ましく感じるのかな。
休んでなんかいないで、もっと仕事をしたい、と。
羨ましい⋯いや、羨ましくはないな。
仕事より愛する家族がいる自分のままでいい。
休日、家族と一緒に過ごすことを夢見て、日々の仕事に打ち込む自分のままで。
そっか、I love 休日の朝、というより、I love My Family だったな。
結局、これのために頑張ってるわけだ。
安易なオチに辿り着いた感もあるが、愛されるからこそ愛すべき存在が生まれる。
そんな存在と過ごす休日を待ちわびるのは、決して後ろ向きな考えじゃなかったな。
I love All of My Life.
時に嫌になったりする朝も含めて、すべてが生きているからこそ。
雨音に包まれて、眠った。
今日はもう疲れたよ、君はそう言った。
僕の気持ちも知らずに、気持ち良さそうに眠る君は、天使なのか悪魔なのか。
雨音はザーザーと、地面を揺るがすほどの勢いで降り続ける。
つまらない喧嘩だった。
だから君は、つまらないからやめようよ、と言った。
つまらなくなんかない、大事なことだ、僕はそう言った。
でも、つまらないことだった。僕が意地を張っていただけ。
君を困らせる必要なんてなかった。
遠く、雷鳴が聞こえる。
きっと、明日の朝になれば、僕の心は晴れ渡り、今夜の不満なんて跡形もなく消え去っているのだろう。
きっと雨も上がる。
だから今夜のうちに、伝えたいことを伝えておきたかった。
それで君とぶつかるなら、それは僕達にとって必要な試練だと思った。
だけどそれは、僕のつまらないエゴだった。
君の安らかな寝顔が、それを教えてくれる。
つまらない喧嘩だと、天使のように諭してくれた君。
僕の思いは届かなかったんじゃなくて、すでに配達済みだったんだね。
封を切って箱を開けて、ちゃんと中身を確認してくれていたんだ。
その上で、譲れないところは譲れないと、当たり前の答えをもらっただけ。
それを伝えてくれた後の、満足そうな眠り。
二人の関係を壊す要素なんてどこにもなかった。
雨音はザーザーと、君への賛同の声を上げている。
雨音にまで味方される君は、天使なのか悪魔なのか。
雨音に包まれて、夜は更けてゆく。
悔しいけど、満場一致で君の勝利。
まだ、喝采は止みそうにない。
その美しい人は、雨に濡れて薄汚れた子猫を蹴り飛ばした。
自慢のヒールを汚されるのが我慢ならなかったらしい。
高価なヒールは彼女の美しさの一部だ。
身にまとう美しさは、その心の醜さを覆い隠し、彼女は今日も羨望のステージに立つ。
スポットライトを浴びて、ヒールに付いた汚れをひた隠して。
ヒールの先で蹴られた子猫は、止まりかけた呼吸を何とか取り戻した。
頼りない小さな体で、それでも何とか生きようと抗っている。
泥にまみれて、雨に濡れて、明日を生きる糧もない。
だがしかし、生きようとする思い、それはがむしゃらで、煌めく命の灯火は美しい。
惰性で生きる人間達を、羨むこともない。
その後、子猫は通りかかった老婆に拾われ、濡れた体は毛布にくるまれる。
美しい命が美しい心に出会い、この混沌とした世界に生きる手段と理由を生み出した。
美しい人はその業界を席巻し、不動なる地位を築いてゆく。
ある日の雨上がり、移動する車内から、水たまりで遊ぶ幼い子供達を見かけた。
靴が汚れてしまうことなど気にもせずに、戯れる子供達。
ああ、私にもあんな時代があったな。
そうは思ったが、戻りたいとは思わない。
私は幸せを手に入れた。
もがき、あがき、血を吐く思いで。
この幸せを、いつまでも守り続けたい。
子猫と老婆は寄り添いながら眠り、このささやかな幸せを、いつまでも守り続けたいと願う。
子猫は温もりを手に入れ、老婆は孤独を癒してくれる存在を手に入れた。
幸せの形は違えど、誰もがそれを求めて生きている。
世界に息づく、そのすべてが美しいと思った。