「すみません、道を尋ねたいんですが」
「ああ、いいですよ。どちらまで?」
「ヤマゾエさんのお宅、分かります?」
「ヤマゾエ…ああ、あの丘の上の。あそこなら分かりやすいですよ。ほら、ちょっとここからも見えてる」
「あれですか。すごい豪邸だな」
「お知り合いではないんですか?セールスとか?教えちゃマズかったかな」
「いや、そんなんじゃないです。ちょっとあの家のご主人をね、始末するように頼まれまして」
「始末…?…え?」
「そういう依頼があるんですよ。その依頼を受ける仕事もね」
「依頼って…またまた、人を担ごうってんですか?」
「あなたを担いでどーなるってんですか。あなたがターゲットならともかく」
「ターゲット…」
「それでは、ごきげんよう。くれぐれも、私のことは他言しないでくださいね。自分のために仕事をしたくはないですからね」
あくまでも冷静なその男は、私に背を向けて去っていった。
私は立ち尽くす。夕暮れが迫る。
あれから一週間が経つが、近所で殺人事件があったというような話は聞かない。
そりゃ、そーだよな。やっぱり担がれたのか。
でも、私はヤマゾエさんの家族構成も知らない。
奥さんと二人暮らしだったら?
その奥さんが…依頼人だったら?
バカなことを考えてしまう。
本当に、あんな仕事を引き受ける人間がいるのだろうか。
だとしたら、私はもう顔見知りだ。
もし、どこかで出会ったら、私が仕事を頼むことも出来るのだろうか。
最近、妻の浮気を知った。
もう何年も続けていたらしい。
いや、だからといって妻をどうしようとは考えていないが…。
私は、あの日からずっと、微熱が続いている。
何もかもがうまくいかないから、人は時折立ち止まり、心を痛め、優しささえ失いそうになる。
愛情に包まれてこの世界に誕生したあの日は、生きるにつれて遠ざかり、祝福されていたのかさえ忘れてしまいそうだ。
自分は生きるに値するのか、なんて、考えても意味のないことを考え、駅の雑踏に紛れてしまったら、砂浜のそのひと粒にしか過ぎないことに気付かされる。
それでも生きるのは、あの日に生まれて、生きるチャンスを与えられたから。
この世界でうまく生きられなくても、何度失敗して挫折を味わっても、それは生きているが故の経験だって分かってる。
そこから新たに何かを始めることだって、すべてを変えてしまうことだって、跡形もなく壊してしまうことだって、自分次第で可能なはずだ。
灰色に濁った空の隙間から、待ち望んだ陽の光が届く日は必ず来る。
私達はいつだって、太陽の下で生きているから。
そこから貰った力を、原動力に変えられるから。
そうだよ、人間だってきっと、光合成が出来るんだ。
葉緑体すら持ってないけど、二酸化炭素を吐き出してるけど、太陽のエネルギーを自分のものに変えることぐらい、きっと私達だって出来るんだ。
だからうまくいかない日は、立ち止まって空を仰ぐよ。
そして深呼吸。
これが私達の光合成なんだと思う。
生きるエネルギーを充電して、また歩き出すためのパワーを手に入れよう。
大丈夫。
そうやって、数え切れないほどの人達が生きている。
自分だけじゃない。
生き方は人それぞれだけど、みんなおんなじ人間なんだよ。
「ちょっとこれ、誰のセーター?」
同棲を始めたばかりの彼女が、クローゼットから見覚えのあるセーターを持ち出してきて、僕に問い詰める。
「ああ、僕のだよ、それ」
「へぇ…これ、手編みだよね?」
「そう、よく分かるね」
「こーゆーの、捨てられない人なんだ」
「捨てたくは…ないかな」
「過去を引きずるのって、カッコ悪くない?」
「そーかな。引きずってるつもりはないんだけど」
「でもさ、今、気まずいって思ったでしょ?」
「んー、まあ、ね」
「それは、引きずってる証拠なんじゃない?」
「いや、だって、当時はホントに好きだったんだよ」
「あーそーゆーこと言っちゃうんだ。正直過ぎるのも考えもんだよね」
「今だって、機会があれば、と思ってる。なんなら、君にも認めてもらいたいんだ」
「ちょっと…待ってよ。本気で言ってるの?」
「本気だよ。実を言うとね、今でもホントに好きなんだ。これからも、続けていきたいんだ」
「えぇ…衝撃の告白なんですけど。もう出ていこうかな」
「なんで?何がそんなにいけないの?」
「…もういい。分かったよ。好きなようにすればいいじゃない。私は出ていくよ」
「ちょっと待ってよ。どうして、好きなことをやめなきゃならないの?確かに、男が編み物なんてって偏見がない訳じゃないけど、別に女の子だけの趣味じゃないだろ。男だって、自分のセーターくらい編んだっていいじゃないか」
それからは、何故か彼女が上機嫌で、「自分も編み物を覚えたい!」なんて言い出した。
なんで最初からそう言わなかったんだろう。
ちゃんと、「僕の手編みのセーターだよ」って言ったのに。
あれ?
落ちていく。
ずっとずっと落ちていく。
奈落の底まで。
勘弁してくれ。
夕暮れに母親の呼ぶ声を聞いた。
夕飯の時間だから、すぐに食卓に戻れと。
今夜はハンバーグ。
でもお前のケチャップは緑色。
昨日、ホームセンターで買ってきた。
何故?
落ちていく。
ずっとずっと落ちていく。
奈落の底はお前が望んだ終着地点だ。
満喫してくれ。
黒猫が言う。
お前の人生で一番の誤算は男に生まれたこと。
右足をハシゴにかけて、左足を縄で縛られたまま、大きく息を吸い、小さく悲鳴を上げて。
選ばれた人間であることは、お前をいつもその気にさせた。
空を舞う。
バラバラになる体。嘘にまみれた生活が歪む。
光り輝いた時代にはもう還れない。
私のケチャップは緑色。
空を舞い、撃たれ、落ちてゆく。
不意に目覚め、雄叫びを上げる。
閃輝暗点の視界に揺れる、幾ばくかの幾何学模様。
ジリジリと心が答えを知りたがる。
ねえあなた、一昨日の風は幸せを運びましたか?
落ちていく夢の中で、そんな壊れそうな望みを抱いて。
夫婦喧嘩は犬も食わない、とはよく言ったもんで、夫婦の喧嘩の原因なんて、ホント取るに足りないものが多いと思う。
なんでこんなことが許せないんだろ、と不思議に思うほど、些細な言動が心に引っかかったりする。
これはきっと、血の繋がりのない男女が、一時の熱情に浮かされ、怪しげな外国人に誓いを立てられて、育ってきた環境の違いを押し付け合いながら、いついかなる時もこれを愛すことを約束してしまった呪いなのかもしれない。
結婚は人生の墓場、とか言うしね。
一時の熱情に浮かされて、ってのは、本当に危険が伴う選択になるんだと思う。
お別れしてやり直すことも、クーリングオフのように気軽にはいかないし、かといって試してみなきゃ分からないことだって、世の中にはたくさんある。
結婚って厄介だ。
夫婦って面倒だ。
でも、だからこそ世界が広がって、今までにない経験が出来て、時には心の安らぎを与えられることだってある。
まあ…我が家の場合、だが。
結局のところ、相手選びは慎重に、妥協はせずに、たとえ愛を失くしても思いやりを持って、てのが重要なんじゃないかと。
そんなん分かりきったことかな。
でも何故か、見誤ることが多いんだよな、世の中。
少なくとも、添い遂げてる間にお互い年を取るからね。
若いうちに見た目だけで選んだりしたら…まあ、後悔するよね。
これ、教訓。