この探偵事務所には大きなくまのぬいぐるみがある。幼児が抱えたら手一杯になりそうな大きさのそれは、所長である要とは文字通り幼児の頃からの仲だそうだ。名前はミルク、幼い要は薄いベージュの体毛からミルクティーを想像したらしい。
ミルクはいつも彼の寝室の定位置に腰かけている。その姿は、助手である睦己が来る前からの住人として、堂々たる風格だった。
「要さんって、そういうの好きなのに、増やさないんですね」
友人の毛繕いをする姿を眺めながら、口をついて出たのは純粋な疑問だった。
睦己が来たばかりの頃は、ぬいぐるみを後生大事にしているなんて子供っぽいと思われるという理由で隠されていたのだが、今ではリビングで丁寧に毛並みを整えられている。ばれてしまったのならこそこそしても仕方がないと開き直りは早かった。睦己も可愛らしいと思いはしたが、嘲るようなことは一切ない。
ただ、わざわざ睦己がいる時に目の前でする必要はないだろう、という不満がないわけではないが。
「そういうの、はやめなさい」
「すみません。ぬいぐるみとかマスコットの類、という意味です」
素直に謝れば、よろしいとでも言うように小さく頷く。そして、当然のことを言わせるなとばかりに回答が返された。
「ほかの子を迎え入れたら、嫉妬してしまうだろう」
睦己はその気持ちがそれはもう痛いほどわかってしまったので、後日うさぎのぬいぐるみを連れ帰った。一番気に入るものを選んだつもりだ。
「せっかく君の質問に答えたのに、僕の回答は不要だったということか?」
と言われもしたが、かわいい助手からの贈り物を無下にすることはできなかったようで、結局仲良く並べられている。本当は喜んでいることも知っている。
睦己は、どうかもうほかの子を迎え入れることはありませんように、と願うばかりだった。
本当はいつだって言いたかった。
「あんたのせいで慰謝料貰えなかったけど、あんたがいたら再婚もできないもんね」
母が慰謝料の放棄と引き換えに、父に自分を押し付けて出て行ったときも。
「まったく、面倒なものを置いていきやがって。金だけは出してやるが、迷惑はかけるなよ」
父が自分を放置して、不倫相手と築いた新しい家族の元へ通っていくときも。
「先生はここまで。おうちでお父さんのこと待っててね」
体調不良で早退することになり、家まで送り届けてくれた保健医が帰ってしまうときも。
誰にも言うことのできなかった願いは、決して叶うことはない。
今まで彼女を幾度となく乗せた車の中。彼女にはバレてしまったけれど、彼女の前では控えていた煙草に火をつける。
「逝かないで、ほしかった」
もう届くことのない願いが弱々しく響いた。
母に管理されていた頃は、気づいたときにはクローゼットの中身が入れ替わっていた。トレンドに敏感でないと思われないように。いつだって母が気にしているのは季節よりもトレンドや流行だったように思う。
母に見放されてからは逆に、クローゼットの中身は一切変わらなくなった。リストカットの跡を隠すために、首の索条痕を隠すために、体重が落ちて骨の浮いた身体を隠すために。常に身体全体を覆い隠すような服を着ていた。
「来週から夏服なんだって!」
高校の制服に身を包んだ純が笑う。初夏に入り、気温の高い日も増えてきた。一日ごとに夏に向かっていく。純に似合う季節が来る。
「わたしも、夏らしい格好してみようかな」
隠し続けた傷跡は触れると確かな違和感はあるけれど、治療の結果もうだいぶ薄くなっている。
「海琳は綺麗だから、絶対似合うよ」
「ありがとう。純くんにそう言ってもらえるのが、一番うれしい」
週末はきっと、君のために衣替えをする。