君は今
病室。一人の老人が、家族に見守られながら最期の時を過ごしていた。呼吸も浅くなり、声を出すこともできず、ただ家族の声をじっと聞いている。
老人は自分の生きた八十年余りの人生を振り返っていた。三兄弟の末っ子に生まれ、よく笑う元気な母と優しい父に育てられた。臆病な性格でよくいじめられていたが、二人の兄達がいつも助けてくれた。近所の犬によく追いかけられ、犬が苦手だった。
頭は良い方だったので、高校は進学校へ進んだ。そこで妻と出会った。高校を卒業してすぐ結婚し、二人の子供が生まれた。長女は妻に似て活発で、その下の長男は逆におとなしい性格だった。
ある日長女は一匹の子犬を拾ってきた。反対しても聞く耳を持たず、結局飼うことになってしまった。長女は喜んで毎日世話をしていた。事故に遭い亡くなるまでは。
突然のことでショックを受けていた彼を慰めたのは、長女が大切にしていた犬だった。苦手だったはずがいつのまにか大切な存在になり、亡くなった時は家族の誰よりも号泣したものだった。
老人は虹の橋の話を思い出した。飼い主を虹の橋のふもとで待つ姿を想像し、もうあのこは娘と一緒に渡ってしまったかもしれないと思いながら、老人は息を引き取った。
「おとうさーん」
「ワン!」
どこからか少女と犬の鳴き声がする。すぐに娘と犬の姿に気づいた老人は、涙を流しながら一緒に虹の橋を渡っていった。
物憂げな空
屋上に寝そべりながら耳を澄ましてみる。大人の話し声、笛の音、笑い声。自分がいなくても変わらない日々。
目の前には、どんよりとした曇り空が広がっている。もう何日も晴れた空を見ていない。
目を閉じた。一番仲が良い友人、両親、バイト先の先輩、いつも行く本屋のおじさん、初恋の人、そして黒いフード姿の人物。
目を開けた。あの日から一ヶ月以上経っただろう。いくら考えたって毎日を適当に過ごしていた自分にわかるはずがない。悔しいと思うことが間違っている。最初の頃はいろんな人に会いに行った。でも誰も何も答えてくれなかった。
もう諦めた。時間ももう無い。大きく広がる薄暗い空だけが、自分を見ている。
「お前も俺が嫌いなんだろ。」
そう呟いた自分を鼻で笑うと同時に、聞き慣れたチャイムが鳴った。がやがやと楽しそうな声が聞こえる。無性に腹が立ってくる。
「せめて最後ぐらい晴れろよ!」
彼がそう叫んだ時、ガチャっと屋上の扉が開いた。一人の生徒がキョロキョロとあたりを見回しながら入ってくる。続いてその生徒の友人らしい二人の生徒も入ってくる。
「どうかしたのか?」
片方の友人が聞く。
「いや、誰かいたような気がしたんだけど、気のせいだったみたいだ。」
いつのまにか屋上は、明るく照らされていた。
小さな命
授業中、目の前をきらきらとした鱗粉が舞う。私はそれを、ほこりかのように払いのける。
一週間前、突然現れたそれは私以外の人には見えないらしい。黒髪に黒い目の女子高生に、蝶のような羽をつけて十センチくらいに縮めたようなそれは、何を話すわけでもなく、ただ私のまわりを飛び回っている。
もちろん最初は驚き、現れたわけを問い詰めたが、困ったような顔をするだけだった。一週間もすれば私は、それをただの虫のように思い始めた。
今週末、私の手術が決まった。ただ体の中にできた小さな異物を取り除くだけの簡単なものだ。
手術はあっけなく終わった。
そこから私は、あれの姿を見ることはなかった。