二人っていうのは、もっとも小さな複数でかなり閉じた世界だ。
誰に聞いたんだったかな。
きみだったと思うけど。
どこかで読んだ言葉を、きみから聞いた気がしてるだけかもしれない。
そんなことがとても多い恋だった。
そばにいると世界がどんどん縁取られて、知らない場所に連れて行かれた。
それがすごく怖くて楽しくて、たまらなく幸せだったよ。
二人ぼっちみたいな気でいたのは私だけだったね。
『二人ぼっち』『バカみたい』
春の陽が注ぐ電車に乗って、穏やかに君が微笑んでいた。だからこれは夢だと思った。
最近会った人に君のことを話したら、あなたは優しい人だねと言われた。そんなひどいこと言われてもその人に感謝しているだなんて。恨みを感じていないだなんて。
そんなことないですよ、と私は言った。そうなんですかねえ、だったかもしれない。本当はどうなのか自分でもよく分からなかった。過去は美化されると言うし。夢も美化されると言うし。
聞いてる? と君がまた笑う。いつもうわの空なんだから。
どこに向かってるんだっけ。
私は君の手を見て言った。鞄の上で指先を組んで、答えた声は上手く聞き取れなかった。
車窓を水が流れていく。川だと思った瞬間に、それは海になり街になった。
知らない場所ってわくわくするね。
弾んだ声に抗えず、一瞬だけ向かいに目をやる。ちゃんと見つめてしまったら、自分でもよく分からないこの気持ちが、君をかき消してしまう気がして。
『胸が高鳴る』『夢が醒める前に』
手持ちのカードで戦え
ルール知らんまま戦え
後出じゃんけんを戦え
正解は分らないが戦え
勝ちなど望まずに戦え
いのち尽きるまで戦え
負けなければ、それでいいんだ。
『不条理』
その子どもは一歩歩くごとに立ち止まっていた。壁に貼られたポスターの亀や、床に伸びた黄色のタイルを、速度を落としてあたしも眺めた。トーマスのリュックを右肩にかけ、父親らしき男性はすれ違う人の邪魔になりそうな時だけ、息子をさり気なく通路の端に誘導した。
あたしも、真っ直ぐには歩けない子どもだった。この世界は刺激に満ちていて、ひとつひとつ明らかにしないでは先になど進めなかった。母はたびたび大声を出し、私の腕を強く引いては真っ直ぐ歩かせようとした。
腕時計にチラと目をやった男性が、両手をじゃんけんのチョキにして横歩きをし始めた。
「あ! パパ、かにさん!」
気づいた子どもが真似をしてカニ歩きで傍に寄る。
「ちょっと急ぐカニ。ついて来れるカニ?」
子どもが楽しげに「いけるカニよー!」とスピードを上げる。おむつで膨らんだ尻が揺れる。
羨ましいと思う気持ちと良かったねと思う気持ち。そのどちらもあたしの真実で今だ。
遠ざかるカニ親子がぼんやり滲む。泣かないよ、こんなことで。こんなことくらいで今更。
『泣かないよ』
「ごめん、なに?」
名前を呼ばれて目を上げたら、君はわざとらしく呆れた顔をする。
「週末の待ち合わせ、変えてもいい?」
「あ、うん、いいよ。どこにする?」
教室の中はさわがしくて、君は少し身を乗り出した。シャンプーの香りだろうか。お花屋さんの店先を通り過ぎたときみたいな、清々しい緑の匂い。
「コラッ、席につきなさい。授業時間ですよ」
遅れてきた担任の声に、君が渋々席を立つ。
「あとでね」
教壇から、次の学校に行くまでは我が校生徒の自覚を持って、などとお決まりの文句が始まった。年明けからいい聞かされ、もはやげんなりする言葉だ。『私、言ったよね?』と『申し訳ないけど』が口癖の年配教師はクラス中から疎まれてる。でもそれも、明日で終わり。
通路を二つ挟んだ席で、耳に髪を掛ける君が見えた。真剣に話を聞くときの癖だ。本当に真面目で偉いなと思う。そして途方もなく可愛いと思う。
これからも、今までみたいに会ってくれる?
新しい友だちとの時間のほうが大切になったりしないよね?
口にするのはまだ怖い言葉を舌の上だけで転がして、私はただ君を見ていた。
『怖がり』