足音だけで、吐いた息の音階だけで、なんとなくわかるよ。今夜の君の調子ってやつがさ。
ㅤ残業ちょっと多いんじゃない?ㅤあの上司の無理難題はその後どうなったのかな?
ㅤなにより僕の気がかりなのは、君の心の揺れ方。独り言の質と食事の中身、欠伸の数——そのへんが整ってれば、ひとまずは安心だからね。
早く髪を乾かしてこっち来て。今夜はもう一緒に眠ってしまおうよ。
ㅤお気に入りのあのコロンを僕に吹きかけたら、ずっとくっついててあげるから。
ㅤ背中をもぎゅもぎゅ揉んでても、しっぽをじっと握っててもいーよ。君が眠ってしまうまで。
『僕と一緒に』
たとえばピーカンや大雨だったら、約束通り出かけていたのかもしれない。日焼け止めやら大きめの傘やら、ちゃんと前の日に準備して。どうしようかなあと悩むうちに約束の時刻が過ぎていた。
ㅤ天気のせいにすんなよな、と洋ちゃんは言った。
ㅤハナから来る気無かったでしょう?、と航くんは言った。
どちらも正解な気がするし、どっちも違う気がする。あたしは曖昧に頷いて、最近お気に入りのコーラルピンクのリップの隙間から雲みたいな煙を吐いた。
『cloudy』
初めて会った時、マンゴーソーダを渡してくれた君。
「間違えて買っちゃったんだよね。だからほら、遠慮しないで」
人助けだと思って飲んでくんない?
急に泣き出した空を並んで眺め、謎の炭酸を傾けた。飲んでも飲んでもよく分からない味だった。まるで君の心みたいに。
「降り続く雨なんてないからね」
缶をちゃぷりと振ったのは、沈黙が照れくさかったから。
「明けない夜も、ない 」
ひとりごとっぽく言ったのは、私が泣くのを見てたから。
「予報になかった雨なんだから多分止むよ」
傘を使わなかったのは、密かにきっかけを図ってたから。
あのあとも楽しいことは数え切れないほどたくさん起こったけど、はじめての雨宿りのあとの見事な虹が忘れられない。
君を想えば互いの空まで、いつでも虹が架かるから。
『虹の架け橋🌈』
文字を打つ君を眺めるのがなんか好きだった。
ㅤ打ち込んでは手を止め、首を傾げて吟味して、君はおもむろにタタタとデリートボタンを連打した。
「なんか違うかもって。打ってみるまでわかんないの」
ㅤ書いてる時間よりも、手を止めたり消したりしてた時間の方が長かったかもしれない。小さな画面を彷徨う指は、どこか知らない国の楽器を奏でているようで。
ㅤ送ったきりのメッセージが、眩しく光って視界から溢れてく。滲んで読めなくなる文字を、睨むように目を凝らした。指先の奏でる返信を聞き取ろうとするみたいに。
『既読がつかないメッセージ』
台風が幾つか通り過ぎて、夕立の後にもアスファルトの匂いが立たなくなった。朝夕に涼しい風を感じるようになった。なのにどうしてこの部屋は、こんなにも暑い!?
「ねえ、外の気温知ってる? 二十三度だよ?」
リモコンを印籠のようにかざしてみたけど、お兄は片方の眉をぴくりと動かしただけ。
「……だから?」
あたしをチラリと見上げて、眼鏡の奥の瞳はまた液晶画面に吸い寄せられる。
「この部屋の温度設定見えてる? 二十七度! 外より暑いの!」
「そう。なら、外で寝れば?」
「やだよ、虫来るじゃん!」
ㅤそういう問題かよ、とお兄が呟く。
「電気代もかかるしさ、こんなに涼しいしさ、今日だけひとまずクーラー切ろ?」
「やだね。まだ暑い」
意に反して切れるお兄ほど面倒なものはなく、ひとまずあたしは引き下がった。毎年の攻防は始まったばかり。地道な譲歩の積み重ねののち、思い切った攻め込みが勝負を分けるのだ。要は納得させた者勝ちってことだけど。
しかし、クーラーで喉をやられかけたあたしには、あまり時間がない。
今年の兄を、例年にない速さで秋色に染め上げなくては!
『秋色』