「ここ、さっき来た……」
三回目に同じことを呟いて、諦めた私はスマホの地図アプリを開いた。
スタートとゴールを決め、曲がるたびに目印を確認する。たどり着いたら逆ルートで。それを何度か繰り返せば、初めての道もあなたのもの!
方向音痴を直すにはという記事を信じ、書かれてある通りのことを試すこと二週間。初めての道どころか、どんな道も私のものにはなってくれない。
アプリで確認した限りでは、三つ目の角を間違えて以降混乱をきたしたらしい。原因が分かっただけでも進歩かなあ。
ポンコツな記憶の地図を励まして、私は歩き続ける。夜までにはうちへ帰れますように……!
『記憶の地図』
ㅤ見たがっていたDVDと夏物のシャツをカバンに詰めて、流しの下の扉を開けた。奥からひとつのマグカップを取り出す。
ㅤ混ざり合う藍と桃の中に白い点みたいな星が光る、美術館のショップで見つけたカップだ。
ㅤ自分では手の届かない貰い物のハーブティーとか、死ぬほど疲れた夜のご褒美デカフェとか、そんなものだけを飲んだ気がする。
ㅤあの日並んで見た空も、こんな色の夜明けだった。
ㅤこのマグカップのような時間を、この先も共に過ごせたら。もしも君が、そうしたいと思ってくれるなら。
ㅤ幻想的な空の淵を、私はギュッと握り締めた。
『もしも君が』『マグカップ』
指に合わせて跳ねるリズム。
伏せた睫毛でさえ僕を導く。
何度触れても同じ響きはなく、
変わらず僕をドキドキさせる。
それはたぶん、君だけのメロディ。
『君だけのメロディ』
ㅤ約束なんかしなくても、朝になれば難なく君に会えた。喧嘩した日は気まずさをなだめて、推理小説を読みふける横顔を盗み見た。
ㅤそれは幸運に他ならなかったのに。噛み締めることもせず。なんの進歩もせずに、ただページをめくってた。決して自分の登場しないドラマを。
ㅤ傍観者の顔で唇を噛んで、呑み込んできたことばかり。
けれど、そんなものは全てが付け足しみたいなものだった。
ㅤ今こそ伝えたい。伝えなきゃいけない。一番大切な言葉は——
『I love』
隣室から凛子のギャッと叫ぶ声が聞こえた。怪我でもしたかGが出たかと、私は勇者の足取りでリビングに駆け込む。
「降ってきちゃった! ごめん、手伝って!」
ベランダから呼ばれ、バケツリレーの要領でしばらく洗濯物を受けとる。すべて取り込み終えると、「今日降るなんて言ってなかったのにい」と唇を尖らせた凛子が、シャツの袖をパタパタ払って窓を閉めた。
「すぐ呼んでくれて良かったのに」
「今週はあたしが洗濯当番だし、つかさ、会議中かと思って」
「え、凛子こそ、明けじゃなかった?」
「そーだけど。夜勤の翌日は休みだからあんま寝すぎてもね」
取り込んだピンチハンガーをカーテンレールに掛けて、凛子が外を眺める。
「こうやって部屋の中から音聞いてる分には悪くないんだけどねえ、雨」
「出かける予定はないんだし。好きなだけ包まれなよ、雨音」
「そーしよっかなあ」
キッチンに入った私は、凛子にケトルをかざす。
「ついでに一休みするよ。珈琲飲む?」
文庫本を開きかけた凛子がソファから子供みたいな顔で振り向いて、「のむー! ありがと!」と笑った。
『雨音に包まれて』