ㅤ日の翳る無人駅の改札で、君の姿が影絵に溶け込んでいく。大した言葉も返せずに「じゃあね」と僕は呟いた。近づく列車を見たままで。
ㅤただ一度手を振ったきり、あなたはふり返らなかった。いつでも触れられる距離にいた背中が、ドア越しではあまりに遠くて。
ㅤまっててほしい、と——
ㅤまってるからね、と——
言えたら良かった、嘘になっても。
『まって』
ああすればよかった……こうすればよかった……でも半田さんだって、あそこまでキツく言うことないじゃない。
頭の中をいろんな考えがぐるぐる巡っていた。パソコンの画面がどんどん滲んでいく。わっと泣き出したいのをこらえて、開いたままのメールを睨んでいたら、名前を呼ばれた。少し離れたところで、課長がちょいちょいと手招きしている。半田係長に何か言われたのだろうか。仕方ないかもだけど、いまは何を言われても、冷静に聞ける気がしなかった。
ノートパソコンを閉じて、仕方なく課長の後に従う。小会議室へ入るとばかり思っていたが、「空室」の表示が出ている部屋の前を課長は素通りし廊下をずんずん進んで行った。
突き当たりに着くと、給湯室の入り口で自販機を指して
「好きなの押せ」
とICカードを取り出した。
すこし考えて、ミルクティーのボタンを押す。普段は珈琲ばかりだったが、甘いものが飲みたかった。課長がカードをかざすと、取り出し口でゴトリと厳かな音が響いた。
「ご、ごちそうさまです」
「うん」
課長は続いて缶珈琲を買い、先にタブを開ける。ミルクと砂糖の入ったものだった。ブラックしか見たことがなかったのでちょっと意外だ。給湯室の流しにもたれ、並んで缶を傾けた。しばらく二人とも黙っていた。
「そういうの飲むんだな」
ㅤ甘いミルクティーをじっと見て、課長がポツリと言った。
「課長こそ。ブラックだけだと思ってました」
ㅤ私の返事に課長は、ははっと笑った。
「まだ知らない世界がある、ってことか。俺にも、半田にも、日野にも」
「え……?」
「だから、その、なんだ」
ㅤ身体の重心を探るように動かして課長は目をギョロリと左上に動かす。眉間に皺を寄せ、見えないものを見ようとするかのように。
「分かろうとすることを諦めないで進もう、ってことが、言いたくてだな」
ㅤ分かったような分からないような慰めに、私はしばし立場を忘れ、ふふっと吹き出してしまう。手の中のミルクティーがちゃぷりと音を立てた。
『まだ知らない世界』
ㅤこれだけ頑張って芽が出ないんだからさ。きっと向いてないんだよ。
これでも結構我慢したんだよね。これ以上はもっとつらくなるから。ごめん。
ここらでもう諦めよう。ずっと大事にしてたの知ってるから、残念だけど。
ㅤ手放すには勇気が要るんだ。始めるよりも続けるよりも、底が知れないから。放たれた言葉に、世界が壊れる音に、半身をもがれる痛みに。私はただ、戦慄するだけ。
『手放す勇気』
ㅤどこでもいいから旅に出たかったあなたと、小説に書かれた場所に行ってみたかった私。あの頃の二人は今思えば無敵だった。私が言った行き先の通りに、あなたがツアープランを組む。思い立った翌週には私たちは大抵空を飛んでいた。
ㅤ初めての海外はマレーシアだった。治安も物価も悪くなかったクアラルンプールの、二十八階のネオンのひとつに私たちは溶け込んだ。
ㅤ私がどうしても行きたいと言った、両端に蛍の群れがとまる河下りのツアーは、新婚旅行カップルだらけで、図らずも傷心旅行と化した私の背景に、彼らのあらゆる仕草や言葉が容赦なくグサグサ刺さった。
ㅤ近くのレストランで夕食を摂り、日没を待って舟の列に並ぶ。複数の方言が混じったようなヘンテコな日本語を操るツアーガイドは、私たちをずっと同性カップルだと思っていたらしい。
「闇の中でんこそ、光は綺麗に輝けるんやわなぁ」
ㅤ楽しんでね~、と朗らかに手を振られ、私たちは小さな舟に乗りこんだ。遠くから祈りの声が響く。左右に目を凝らせば、忙しなく瞬く光が闇の中で溶けては浮かび上がった。
ㅤ心もとないほど小さな舟は、銀河の只中を静かに進んでいく。
『光輝け、暗闇で』
ㅤ空を覆う雲の隙間から、一筋の陽射しが届く。どんな森の奥深くにも、それは確かに降り注ぐ。
ㅤ限りある記憶の、限りない煌めき。きっと私は、今もあなたを呼吸している。密やかな昏い森で、馬鹿げた鼓動を繰り返して。気紛れのように差し出される光と、思い出だけを吸って吐いている。
『酸素』