未知亜

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5/15/2025, 8:43:21 AM

ㅤ空を覆う雲の隙間から、一筋の陽射しが届く。どんな森の奥深くにも、それは確かに降り注ぐ。
ㅤ限りある記憶の、限りない煌めき。きっと私は、今もあなたを呼吸している。密やかな昏い森で、馬鹿げた鼓動を繰り返して。気紛れのように差し出される光と、思い出だけを吸って吐いている。


『酸素』

5/14/2025, 9:51:49 AM

ㅤあなたは海の香りがした。それをあなたに伝えたことはないけれど。

ㅤ気づいたら夜が明けていた。照りつける日差しに目を開けると、缶ビールを手にした斜めのあなたが視界に入る。
ㅤ開け放した窓の外へ、低い羽音を響かせて虫が飛び去っていく。真夏なのに、早朝の風が少し冷たかった。
ㅤ自分たちの他に部室には誰もいなかった。先輩たちはどこに行ってしまったのだろう。
「大丈夫?ㅤ寝ぼけてんの?」
ㅤなんと言っていいかわからず「うん」と返した私に、あなたは小さく息を吐き「おはよ」と微笑む。瞳の奥で、波のように揺れるプリズム。

ㅤあの日から、あなたを想うとなぜか海の香りがする。
ㅤそれは遠い昔、同じ場所にいた印。太古からつづく、生き物としての記憶の海。




『記憶の海』

5/13/2025, 9:46:33 AM

ㅤこの部屋の、古ぼけたポスターを眺めるのが好きだった。大きな黒い丸の中で、二つ並んだ黒い点の下に三日月のような赤い口が笑う。小さな子供が描いたと思われる絵だった。『母の日ありがとうセール』という文字が掠れている。

「毎度ご迷惑をおかけして申し訳ありません」

ㅤ隣の部屋から、哲子さんの声がする。いつも先に隣でお話をして、それから私のところに来てくれるのだ。早く終わらないかなと、私は椅子の上で足をブラブラさせた。お気に入りの花柄のスカートがふわりと揺れる。

「おかあさん、もうしないって約束したじゃないの。ほら、お店の人にもう一度謝って」

ㅤやがてやってきた哲子さんに言われるがまま、私は頭を下げる。そうすれば一緒に帰れると知っているから。

「ほら、帰りますよ」

ㅤそうだね、私たちのおうちに帰りましょう。
ㅤ私を迎えに来てくれるずっと大切な子。ただ君だけと。




『ただ君だけ』

5/12/2025, 8:15:16 AM

ㅤこの世界は、時にいろんなものに例えられる。旅だとか海だとか。それは誰にでも分かりやすく、明るい光が満ちているはずで。けれど実際は、微妙に違う旅をして、みな違う海を漂っている。

ㅤ同じ地図を手にしても、描く航路が同じでも。同じ言葉を使っても、同じ水に浸かっても。埋まらない歪みがある。

ㅤきみの理解とぼくの理解は、どうしたって交わることはない。単純で絶対の事実にぼくは気づいてしまったから。寂しいけど、厭でたまらないけど、そういうものだから。

ㅤぼくは自分の船に戻るよ。どこへ向かうとも知れない船に。きみと違う未来なら、どこだって同じ闇。

『未来への船』

5/11/2025, 9:54:49 AM


ㅤ最初は、何を書いても単純に楽しかった。美しいと感じたものや心を動かされたものを、真っ白な画面にどんどん写し取っていくような感覚でいた。SNSに上げる度、いろんな人が褒めてくれた。
ㅤけれどだんだん、冷めていく自分をさくらは感じた。いいねをもらうと嬉しいけれど、それがすべてではない気がした。投稿通知が届くたびにいちいち開いて、感想を伝え合うのがめんどうになった。そんな時間があれば、何かを書いていたかった。

ㅤパソコンの執筆画面を開く。真っさらな原稿用紙のいちばん右上の枠で、点いては消える縦の棒を眺める。彼女の心はしんとして、静かなる森へ分けいったような気持ちがする。
ㅤああ、これこそが世界なのだ、と彼女は思う。私はもう何も要らない。これ以外、何も要らないのに。



『静かなる森へ』

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