ㅤ想像できないことは実現できない。まずは夢を描けよ。
ㅤ講義棟を背に歩き出しながら、畳んだ折りたたみ傘のストラップを俺は弄ぶ。そんなこと言われてもなあ。それで直ぐに描ける夢があるなら苦労はない。
ㅤ卒論の相談に行っただけなのに、肝心なことはアドバイスしてもらえず、余計なことだけ言われたきがする。
ㅤ周りが卒論と就活のダブルパンチに追い込まれていくなか、親戚のコネで就職先はあっさりと見つかっていた。やりたいことが見つからないまま、手持ちのリミットは刻々と減っていく。
ㅤこれって問題の先送りとか回避行動とか、結局そういうことなんだろうか。受けたばかりの講義を思い出して怖くなった。
ㅤやりたいことって、どうやって見つけるんだろう。今の俺には夢なんて言葉は重すぎて、遠い国の出来事みたいだった。
『夢を描け』
ㅤこのままだとヤバいかもしれない。最初にそう思ったとき、ケーサツでもどこでも駆け込めば良かった。あのときならまだ、『受け子なんて知らなくて。抜けられなくて』とか何とか言って泣けば、情状酌量の余地は充分にあっただろう。
ㅤもう限界だと悲鳴を上げる脚や肺を、心の中で宥める。頼むよ、もう少しだけ頑張ってくれ。
ㅤ正直、もう一歩も歩きたくなかったが、そんなこと言っていられなかった。ザワザワした気配がまた近づいてくる。
ㅤ逃げ込んだビルの階段を、上へ上へと俺はのぼった。隣の建物とスレスレの位置で立っているこのビルなら、追っ手の裏をかけるはずだ。
ㅤ屋上に着いたと同時に、複数の激しい足音が追いかけてきた。確認している暇はない。捕まったら終わりだ。
ㅤ足を止めることなく無我夢中で走りつづけ、建物の淵まで来ると、俺はそのまま思いっきり地面を蹴った。
ㅤマジかよ、あとちょっと……届かない……。
『届かない……』
ㅤ左肩に重みを感じた。静かだなと思っていたけど、敢えてそのままにしておいた。やはり眠ってしまったか。
ㅤ長い長い一日だった。あの時たまたまそばに居たのが僕だったから、きみは頼ってくれたに過ぎない。分かり切った事実を僕はちゃんと思い出し、隣の平穏を邪魔しないよう小さく息をついた。
ㅤ将来、この景色を僕は幾度となる思い出すことになるだろう。唐突にそう思った。きみの心は、僕の願うようには決して動いたりしないだろうから。
ㅤきみの前髪を揺らす風を。穏やかに上下する胸を。降り注ぐ木漏れ日に閉じられた目を。僕はこの世の縁にする。
『木漏れ日』
ㅤ最初に声をかけてくれたのは、あなたの方だったのにね。私を新しい場所へ次々と誘ってくれたのは、私の知らない響きをたくさん教えてくれたのは、みんなあなただったのに。
ㅤ気がつけば独りで熱唱してた、
ㅤなんてありふれたラブソング。
『ラブソング』
ㅤ喋り終えたとき、私は肩で息をしていた。息継ぎをほとんどしていなかったらしい、指先がじんじんして、身体のあちこちが酸素を求めて細かく震えている気がした。
ㅤ時折小さな相槌を挟みながら黙って聞いていた相手が、机の上で組んでいた指先を解いた。
「話してくださってありがとう」
ㅤ直接関係ないこと言ってしまうかもしれないけど、浮かんだことをまずお伝えしてもいいですか、と訊かれ私は頷く。
「前に別の患者さんに言われたんですけどね、不安な気持ちは心が書いた手紙みたいだって」
ㅤ私は手元のメモに目を落とす。初めての場所で話す時は必ず準備しているものだ。意識していなかったのに、幾つも書かれた『不安』という文字が、ドキュメンタリー番組でよく見る演出のように、そこだけ明るく浮かび上がった。
「私はいま、あなたからお手紙をもらった気持ちになりました」
ㅤこの手紙を、ひとりで読むのは難しいかもしれない。良かったら、これから少しずつ、一緒に開いていきましょう。
ㅤこれは、私が私に宛てた手紙を、読み解いていく物語なんだ。そんなことが、なんの根拠もなくストンと私の中に落ちてきた瞬間だった。
『手紙を開くと』