未知亜

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4/21/2025, 6:50:24 AM

ㅤ夜に会ったことなどなかった気がする。桜舞うやわらかな陽に、微笑んでくれた顔。こちらを見てベンチから立ち上がる、待ち合わせの朝。
ㅤ胸の前で小さく振られた手がこの上なく愛おしかった。

ㅤなのにいま記憶のあなたは、なぜかほのかな星明かり。


『星明かり』

4/20/2025, 7:45:56 AM

ㅤ今日はもう帰りなさいと、言われるままに電車に乗って最寄り駅を降りた。日の沈まないうちにここを歩くのはどのくらいぶりだろうか。そう思うだけで、自分がひどく落ちこぼれてしまったような気がした。
ㅤ会社を出た時より長く伸びる影を見つめて歩く。さっきまではどこかホッとしていたくせに。自分がいてもいなくても、太陽は沈むし会社は変わらずまわるのだ。
ㅤ国道を大型トラックが、ガタガタ音を立てて走り抜ける。ピンク色の空にすっと伸びる街路樹は、まるで影絵の静けさのなか。


『影絵』

4/19/2025, 9:28:24 AM

ㅤ始まりはいつもどこか痛みを伴う感じがする。

ㅤ例えば街路樹のつつじを千切っては捨てる、根元の蜜の密やかな甘さだとか。
ㅤ眠っているような老女の座る文具店で、果物の香りの消しゴムを掴み取ったざわめきとか。
ㅤ人の言葉を盛って話したら、感心して膨らんだクラスメイトの鼻の穴とか。

ㅤそんなどれとも少しずつ似ていて、なんとなく違っている。始まりだなんて気づけなかった、君との恋の始まりの日。


『物語の始まり』

4/18/2025, 8:44:46 AM

ㅤ言いたいことだけ言って本部長が出ていくと、小さな会議室の湿度はぐっと増した気がした。空調機の低い音だけが沈黙を埋めている。
「今更予算不足とか、意味わかんないっすよね」
ㅤ入社二年目の栗田が、空気を変えるように声を張る。
「考えんの遅すぎっつうか」
「ですよねぇ」
ㅤ四年目の桃井が同調するが、声に力がなかった。
「ごめんねみんな。自分の業務もあるのに、今まで——」
ㅤ何か言わなくてはと思ったものの、うまく言葉が続かない。プロジェクトの解散命令にショックを受けているのは私も同じなのだ。
「いや、梨村さんなんも悪くないですから」
ㅤ栗田の言葉にメンバーも「そうですよ」などとひとしきり頷く。「ありがとう」と応じながらも、何か出来ることはなかったのかと後悔だけが浮かび、会話はまた立ち消えになった。
「……悔しいです」
ㅤ苦しげに絞り出された声が、沈黙を割る。その場にいた全員が垣野内を見た。
「悔しいです、とても」
ㅤ彼女は下を向いたまま、もう一度ゆっくり繰り返す。泣くのを堪えているのが、誰の目にも明らかだった。
ㅤプロジェクトのメンバーが定期的に顔を合わせるようになって半年。それは、彼女が初めて自分の気持ちを表出した瞬間だった。その場にいる皆の心に、静かな情熱とも呼ぶべき温度が、じんわりと高まり燃える音を確かに私は聞いた気がする。



『静かな情熱』

4/17/2025, 8:29:04 AM

ㅤ遠くの声が私に言う。
ㅤ——だから言ったじゃない。
ㅤ仕事でミスをして厳しく叱られ、不安に駆られる夜だったり。
ㅤ好きな人に誤解され、眠れないまま迎えた夜明けだったり。
ㅤ——そんなだから駄目なのよ。
ㅤ遠くから聞こえていたはずの微かな声が、すぐ耳許で谺する。耳を貸してはいけないと思えば思うほど、どうしようもなく粒立っていく。
ㅤああ、おかあさん。いったい、いつまで……?


『遠くの声』

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