ㅤ脱ぎ散らかされた靴下が見えた時、私の中で何かがプツリと音を立てた。
「なんで、いっつもそうなの!?」
「……え?」
「靴下脱ぎっぱなしなねしないで、食べてくるなら連絡してよ、突然料理して玉ねぎ全部使わないでっ!」
「え、なに、どした?」
ㅤ一度飛び出した不満は、どんどん溢れて止まらなかった。次から次へと、自分でも細かすぎて嫌になる。私は半分泣き出していた。
「た、たまにはっ、言葉に出して、言ってよっ!」
「……ごめん」
「謝ってほしいんじゃ、なくてっ!ㅤほかに、あっ、あのつく言葉とかっ、言うべきことあるでしょうがっ!」
ㅤ必死に涙を拭いながら訴えると、予想外の言葉が叫ばれた。
「あいしてるっ!」
「そっちじゃない!」
ㅤ思わず私も叫び返す。語尾がちょっとだけニヤけちゃったじゃない。
『ありがとう』
まだどこか夢のなかみたいな
ふわふわした気持ちで、朝。
ただひとりにそっと伝えたいのに
そこらじゅうに叫びたくもある。
胸のあたたかなざわめきを
なだめるようにキスを落として。
『そっと伝えたい』
ㅤ映画か小説のタイトルみたいな言葉を、あたしは馬鹿みたいに繰り返した。
「未来の記憶ぅー?」
「あっ、別に予言とか超能力とかじゃないよ?ㅤもちろん、変な勧誘でも」
ㅤ余程訝しげな顔をしていたのだろうか。法子はブンブンと首を振る。
「どっかの学者の説らしいんだけどね。経験と状況認識によって、人はある程度未来に当たりをつける能力があんだって」
「あー。……学習能力みたいな?ㅤもしこうなれば次はこうしよう、とか?」
「そそ……たぶん」
「たぶんって、テキトーだなあ」
ㅤ学生会館の隅っこに並んで座り、法子はあたしが差し出したスティック状のチョコレート菓子を齧った。オレンジがかったピンク色の唇の間から、ポキリと乾いた音が漏れる。
「言葉を使っての時系列的な思考?ㅤらしいよ。なんか、文学的だよねー」
「これまでの経験と、今の状況認識かあ」
ㅤ同じようにチョコレートを齧りながら、あたしはチラリと隣を見た。例えば——
ㅤ例えばそのチョコレートの反対側から私が齧り付いたら、どうなるだろうか。甘い未来の記憶の行方を、少しだけあんたと分け合えたなら?
「やっちゃん?ㅤどした?」
「あ……いや」
ㅤ我に返ったあたしは、何でもない顔をして続ける。
「あのゴミ箱にさ、ここからこの空箱が入ったら、次の講義サボる未来、みたいな?」
「それは未来の記憶とはちょっと違うかもだけどね……え、やる?」
ㅤ菓子の入った小袋を取り出して脇に置くと、法子はさっそく外箱を手に構えた。
「……入るまでやる気でしょ?」
「あったり前じゃん!ㅤパンケーキ行こ、パンケーキ!ㅤ行きたいお店見つけたから、さっ!」
ㅤ弾むような語尾と共に、チョコレート菓子の箱が宙を飛んだ。
ㅤ一緒ならきっと大丈夫だ。たとえどんな未来でも幸せな記憶になるから。
『未来の記憶』
「やったー、かんせーい!」
ㅤ弾んだ声と共に目の前に両手をかざされ、私は自分のそれを慌ててエプロンで拭う。茶色や白に染まった指先を外側に反らせ、手のひらだけをトンと打ち合わせた。
ㅤココアパウダーや粉砂糖、スライスアーモンドで飾られたトリュフが、銀色のトレイに整列している。小ぶりな丸いスイーツを見つめ、腰をかがめた福子は満足げにため息をついた。
「初めて作ったにしては、なかなかじゃない?」
ㅤよし、と言って、彼女は迷わず一粒摘み上げる。
「さっそく一個!ㅤいっただっきまーす!」
ㅤホワイトチョコにみかんジャムを混ぜたチョコが、桃色の唇の奥へと消えた。私の作った変わり種のトリュフだった。興味津々で手元を覗きに来ては、どんな味がするのかとずっと気にしていたのだ。
「ん!ㅤ酸っぱくて美味し~!ㅤとろっとしてる~!」
ㅤ足をパタパタさせて喜ぶのが可愛らしい。
「ありがとね、試作に付き合ってくれて」
ㅤ本番も上手くいきそう。
ㅤ幸せそうに微笑む彼女のほっぺに、ふたつめのトリュフが吸い込まれる。
「一個じゃなかったの?」
ㅤわざとそう言ってやると、
「えへへ、だって美味しいんだも~ん」
ㅤ満面の笑みが返ってきて、私の言葉を詰まらせた。
ㅤ好きな相手を思って作った、コロコロとした丸いチョコ。私のココロそのもののようで。
ㅤ数日早い祝日の今日こそが、試作と呼ばれたこれこそが、私には聖バレンタインデー。
『ココロ』
ㅤ午前のショーが終わり、裏で着ぐるみの頭を脱いでだらしなく扇風機に懐いてたら名前を呼ばれた。振り向くと法子が立っている。え、なんでここにいんの?
「……ごめん、バイト先まで来ちゃって」
ㅤ白いワンピースには、小さな赤い花が散っている。レトロな昭和デザインが、清楚な雰囲気を醸し出していた。私には逆立ちしたって着こなせない。くそっ、やっぱり可愛い。
「あたしたち、絶賛国交断絶中じゃなかった?ㅤ法子の発案で」
ㅤ出来るだけ冷たく聞こえるように言葉を投げる。嫌な奴だ、私。
「だよね。でも……」
ㅤとにかく、ごめん!
ㅤ白いスカートのすそがひらりと揺れる。赤い花も一緒に踊る。私はただそれを見ていた。謝られるなんて思ってもみなかった。
「なんか、やっぱ、言いすぎたと思って!」
ㅤそういうとこだよ、法子。良くも悪くも真っ直ぐで、腹立たしいけどたまらなく羨ましくもある。
ㅤ傍に置いた着ぐるみの頭を、私は眺めた。星の形をした頭部。スターの王国から来た彼女は、子どもたちの願い事をなんでも叶えてくれるのだ。
ㅤ私はずっとあなただけの星になりたかった。法子が願うことを叶えてあげたかった。ただ、それだけだったんだよね。
ㅤさあ、星に願ってよ。『あなたとは友だちでいたい』って。大丈夫。私はもう二度と、夢を見たりしないから。
『星に願って』