『記憶の地図』
目を閉じると、瞼の裏に黒い球があった。何だこれはと、よおく見る。ただの球じゃなく、繊維のようなうねうねが固まってできてるとわかった。しかし結局これが何かわからない。毛糸? それともスチールウールか? ……いいや、これはどちらでもない。それは一本の、それは長い長いフィルムであった。写真や映画を記録する時のあのフィルムだ。近づいてみる。自身の身長の2倍はありそうだ。
その中の1つに幼い頃の自分が写っていた。誕生日ケーキを嬉しそうに頬張っていて、自分のことながら可愛らしい。それから次の枠には……ん? 黒いモヤがかかっていてよく見えない。手で拭ってみても全く取れない。行儀は良くないが仕方なく足で拭ってみる。やはり取れない。代わりにフィルムの上を歩いて辿れることに気づいた。
どんどん辿る。自分が逆さまになっても、円を描いて歩いて辿れる。同時に色んな自分がいて、先ほど気づいたが、どれもこれも「今までの自分の楽しい記憶」が写されていた。
球の中に差し掛かる。が、少し薄暗くて何だか怖い。気味が悪いのではないが寒くてムズムズして、不快になる気がした。
引き返してフィルムから降りる。一歩引いて見てみると、それはまるで地球だった。ああ自分は、地球一周したのだ。とても気分が良く、高揚した。思わず少し仰いで深呼吸した。
途端に気がついた。あら、何かおかしい。自分は目を閉じていただけだった。瞼の裏を見ていただけだったはずだ。近づいて歩み寄る? 歩いて辿る?
ばちん! と音が鳴る。外ではない。中から。……中? そう中だ。球の中。球からじわりと透明な液体が流れ出てきた。アセトンのような匂いが鼻をつく。液体が黒く濁る。
そこでフィルムのあるひと枠が目に入る。最初に見つけた黒い枠だ。いや、先程まで黒かった枠だ。この液体で綺麗に洗われ、写っているものがよおく見える。お袋だった。かなり色褪せているが、確かに自分の記憶にいたお袋だ。どうして忘れていたんだろうか。黒かった枠の全てが晴れ、さっきまで黒い球だったものが色鮮やかな鞠のようになった。頭が追いつかなかった。眺めるしかできなかった。
グチャ!と鳴る。外から。思わず振り返る。思い出した。
飛び出したのは自分の方だったんだと。
球の一番てっぺんの透明な枠が鮮やかに色づいていく。真っ赤な一枚の記憶。
球だったフィルムがほろほろと解けていく。フィルムは重なり合い一面に大きく広がり、背後には記憶の地図が出来上がっていた。
もう助からないと悟った。振り返った時が本当に最後の最後。動機がし息が上がる。先程まで一個しかなかった脳がばらばらに弾け、脳漿が体外にじんわり逃げ出していくのがわかった。
思い出したいことは沢山ある。この地図の行きたい場所、これから記録したい場所。しかしもう変えようのないものだ。だってこれは、自分の記憶なんだもの。
ううん、違うの。
ううん、違うの。
私はそんな器じゃないの、もっと綺麗で、賢明で、美しいはずよ、もっとちゃんと見て考えて。
「私はもっとすごいってこと、早く気づいてちょうだい。」
飛べない翼
僕は未だに、麻酔が効かない。あの場所もあの記憶も、もう少しで手が届きそうなのに。ふわりと浮いて掴むことができない。今、目の前にあるのは、自分をのみ込む田園と、あのカラスが落とした、黒い黒い羽根。歌が聞こえる。僕の翼を散らした歌が。
幼稚園の頃からずっと遊んでいたあの子が、小学校三年生のとき、神隠しにあった。▼
昔から、もうすぐ梅雨になるなって頃に、国内のどこかで子供が攫われるらしい。▼
あの子が選ばれてしまったと思うと、腹が立ってしまう。▼
別に俺でもよかったじゃないか。▼
なんで。▼
もっとあの子と遊びたかった。▼
話したかった。▼
一緒にいたかったのに。▼
それなのに……。▼
許せなかった。▼
でもそれは神様のことが、ではなくて、自分が一人になってしまったことに対してだった。▼
なんて身勝手なんだ、俺は。▼
呆れてしまった。▼
もう二度と会えないとか、跡形もなく姿を消してしまったとか、そんな事をもう言わないでほしい。▼
あれから十年か。▼
気持ちの整理がついてもうしばらく経っていた。▼
申し訳なさはまだ残るけど……。▼
ーーでもたまに、本当にたまに、思ってしまう。▼
生存なんて言葉、この状況に一番相応しくない言葉なのに。▼
もしかして、もしかしたら……そう思ってしまうんだ。◾︎
うまくいかないときだってあるけど、大抵餅を食えばなんとかなる。チョコレートと食えばカカオの効果も加わって良い。餅は俺にとってベッドだ。口に含んだ途端ふかふかな空間に包まれる。本当に至福である。こんな自分でもここでなら息ができるんだ。ああ、はいはい分かってるよ、もう2回深呼吸したら、仕事に戻るから。