『過ぎた日を思う』
貴女が秋に眠りについてから、
今年で5年が経つ。
今でも、あの一ヶ月と半月の事は昨日の事のように
覚えいている。
貴女が家に帰って来てから
その月日は怒涛の日々で
安心して眠れる日など無かった。
毎日目が覚めると
貴女の目が開かないのでは無いかと不安だった。
だけど、いつも
貴女は隣で眠る私が起きるのを待ってくれて居た。
目を開けると
隣には、おはようと
目で合図をくれる貴女がいて、
私は、ほっとする。
本当は貴女が一番恐くて、不安で眠れないのに。
だから、私は、
少しでも恐怖や不安が薄まってくれればと
毎日、隣に寝床を作り、
毎日、貴女の手を握り眠りにつく。
私は、貴女も
しっかりと手を握り締めてくれると
その温かさで
貴女の不安と私の不安が
少しだけ薄まる気がするのだ。
目を閉じて、
明日は、何を話そうか。
明日は、何が食べたいだろうか。
と考える。
自然と睡魔に負けても、
暫くすると、不安で目が覚める。
何度も目が覚めては、
隣で目を閉じたり、開けたりを繰り返して、
同じように眠れない貴女を静かに見ては
手から伝わってくる温かさに安心が出来た。
だけれど、
金木犀の香りがする秋の朝、
目が覚めると
私の手の中には、貴女の手が無かった。
しっかりと握って眠ったはずの手の中に
貴女の冷たくなって行く手が無かった。
隣で貴女は静かに眠ってしまった。
周りの人達も熟睡させて、
一人で深い眠りについてしまった。
目が覚めないと分かっていても、
貴女の温もりが消えてしまう前に
私は手を握らずには居られなかった。
貴女の手の温もりを忘れないようにと。
あれから幾度となく
日が過ぎようとも、私は
金木犀の香りがする秋の朝に
残してくれた貴女の手の温もりを
ずっと忘れない。
『踊りませんか?』
ゆっくりと彼女の手を取って、
私は、踊りましょうと言うと
彼女は、少し恥ずかしいそうに俯きながらも、
手を優しく握り返した。
夕焼けが、彼女の頬を照らすと、
照れた彼女の頬も紅潮していくようだ。
長い間、
彼女と暮らしてきたのに
こんな風に紅潮する彼女を
間近で見たことがあっただろうかと
握られた手にじんわりと彼女の温かさを感じた。
彼女を身近に感じながら、
私の鼓動と彼女の鼓動が合わさって
ゆっくりと、音を奏でる。
同じように動いているようで、
全く違う音階が心地良い。
私は、長い間、
忘れていた温かくて心地よいこの感情に
泣きたくなって、鼻を啜ると
見上げた彼女の瞳に
夕焼けで紅潮した私が写る。
私は、少し笑いながら
彼女の手の温もりを
忘れないように包み込んだ。
『巡り逢えたら』
また、巡り逢いたい人がたった1人だけ居る。
一度だけ出逢った名前だけを知っているあの人。
あの人は、姿も声もはっきりとは見えない朧げで、
この世の人では無い事だけは分かった。
あの人は、そんな存在だった。
ずっと、ただ私の後ろに居るのはなんとなく分かる。
人が後ろに立っているような感覚があるから。
私はそれを怖いとも嫌だとも思わなかったのは、
何となくその理由を分かっていたから。
たまに私に存在を教えてくれる時が何度かあった。
抹茶アイスが欲しいと指差したり、
エレベーターホールに居たり、
それも季節で服装が変わっていたり、
稀に、存在の意思表示してくれることが
私は、嬉しかった。
何故なら、
あの人は、何年も私の後ろにいてくれたから。
楽しい時も、悲しい時も、側に居てくれたから。
あの人は
決して家の中まで入ってこなかったし、
心の中まで入ってこようとはしなかった。
それに、
私はあの人が何者かなんて、何でも良かった。
ただ、ずっと
あの人は側に居るものだと思っていたから。
側に居て、
私の命が尽きた時、
やっと声を聞けるんじゃないかと思っていたから。
だけれど、
別れは突然やってきた。
あなたは、最後だからと意思表示して、
私の家族の身体を借りて、私に逢いに来た。
私は、なんとなく
『もう、二度と逢えない』のだと悟った。
だから、あなたの名前を訊いた。
もう一度、あなたに巡り逢えたら分かるようにと。
いつか、私の命が尽きた時
あなたの名前を呼べるようにと。
『奇跡をもう一度』
奇跡なんて、この世にないと思っている。
奇跡という言葉がそもそも私は嫌いだ。
奇跡的に数字がゾロ目になったとか、奇跡的に同姓同名に会ったとか、
偶然がただ積み重なっただけなのに、初めの一回目を奇跡と言って、そこに影も形もない存在を信じている。
一回目をもう一度なんて、
もうそれは奇跡なんかじゃない。
私達が、それ選択したに過ぎない結果であり、
行動を起こさない限り、奇跡というものも起きないものである。
本来の奇跡というものは、行動を起こし紡がれた命の上に私達が立っている事、それこそが奇跡と言えるのでは無いだろうかと私は思う。
今生きる私達に紡がれてきた奇跡は
これから先へと紡いで行かなくてはならない。
私は、夏の大きい雲を見ると、
あの日を思い出す。
貴方が、病室の窓から外を眺めている景色にあった大きい夏雲。
私は、その夏雲を見ている貴方の横顔に胸が締め付けられる思いだった。
いつまで、この横顔を見ていられるだろうか。
貴方は、その景色に何を思っているのだろうか。
貴方の気持ちを知りたくても、知れないもどかしさに胸が痛んで泣きたい毎日だった。
でも、あの日に選んだ貴方の思いは、正解だったと思ってる。
貴方が、病室から眺めていた目線の先にある思いは本当はずっと帰りたいだったでしょう?
人生に正解なんてものは無いけれど、
あの日だけは、間違って居なかったと思ってる。
だって、
夏の大きい雲を見る度に、
あの日の貴方の嬉しそうに笑った顔を思い出せるのだから。