『雫』
「いらっしゃい。今日はどんなモノをお探しで?」
路地裏の古道具屋の店主は、カウンターに並んだ無数の小瓶を指差した。瓶の中には、ビー玉のような形の透明な液体が一つずつ収まっている。
私は迷わず、一番淡く光る瓶を選んだ。
「これを。失くした初恋を思い出したいんです」
店主は頷き、瓶の蓋を開けた。
私はその雫を指先に滴らせ、そっと舌に乗せる。
瞬間、視界が弾けた。
放課後の教室、夕立の匂い、そして隣を歩くあの人の体温。
甘酸っぱく、けれど胸の奥がキリリと痛む――完璧な再現度だった。
「……満足しました。でも、コレどうやって集めているんですか?」
私の問いに、店主は古びたスポイトを振ってみせた。本体は硝子で、指でつまんでいる部分がゴム製の。
「簡単ですよ。誰かが泣いたとき、その頬を伝う前に盗み取るんです。喜びも悲しみも、乾いて消えてしまう前にね」
店主の指が僅かに動いた。
私の頬を伝おうとした、今の「感情」が吸い取られたことに、私は気づいていなかった。
『もしも未来を見れるなら』
もしも未来を見れるなら、もっと心構えができたと思うんだ。
年度末&年度初めは忙しいのが常だけど、今回はそれとぶつかるようにいろいろあって、なんかもう頭パーン!になるなんて……
とりあえずゴールデンウィークまで頑張ろう。
『好きじゃないのに』
好きなことと向いていることは違う。
好きなのに上手くできないことよりも、好きじゃないのに上手く出来てしまうことを仕事にしたほうがいい、と聞いたことがある。
それが自分に向いていることなのだと。
特に好きでもないのに、何故か縁がある物事もある。
選ばずにいた道に誘導されているような。
まるで誰かにお膳立てされているような。
それを好きになれたら、良い方向に向かうのだろうか。
それとも、好きになった瞬間に上手くいかなくなるのだろうか。
難しいなぁ。
『ところにより雨』
今日の天気予報は「ところにより雨」。
曖昧だなぁと思いながら、折りたたみの傘を2本用意した。
自分の分と恋人の分。
あの人は少しズボラなところがあるから、きっと天気予報も見ていないだろう。本人に持たせても、すぐに失くすかどこかに置き忘れる。
だから自分で持つことにした。
最近の折りたたみ傘はとても軽くて、2本バッグに入れていてもそれほど負担にならない。
まさか、それをきっかけにして
「押しつけがましい」
「母親みたいで鬱陶しい」
となぜか責められ、文句を言われ、挙句の果てに別れを告げられるなんて思わなかった。
そっかぁ、押しつけがましいかぁ……
せっかく持ってきた傘も開かず、少し前に降り出した雨に頬を濡らされるまま、しばらくそこに佇んでいた。
『バカみたい』
鏡の中にいる女は、真っ赤な口紅を引き直していた。
「バカみたい。あんな男、どこが良かったのかしら」
自分に言い聞かせるように呟き、派手なイヤリングを揺らす。裏切られた夜、泣き腫らした目は冷たい化粧で完璧に隠した。
彼女は夜の街へ踏み出した。ハイヒールの音が、静かな路地に鋭く響く。
自由になったのだ。もう誰の顔色を伺う必要もない。
彼女は心からの解放感に浸り、ふっと口角を上げた。
その時、背後から聞き慣れた足音が近づいてきた。
「……ごめん。やっぱり君じゃなきゃダメなんだ」
情けない声が鼓膜を震わせる。
彼女はゆっくりと振り返った。冷ややかに突き放す言葉を、喉の奥まで用意して。
けれど、視界に入った彼のひどくやつれた顔を見た瞬間。
「……本当に、バカみたい」
彼女の唇から零れたのは、自分でも驚くほど甘く、柔らかな声だった。
差し出された手を、彼女は無意識に握り返していた。