『雨音に包まれて』
ショパンのピアノ曲は、雨だれのようだと思う。
旋律の美しさと、気品。
結晶のような作品の数々。
ショパンの純な想いが伝わってくる。
ラルゲットも
英雄ポロネーズも
ノクターンも。
どれも、ひとつひとつの音がポロポロポロンと雨粒のよう。
強く打ちつけるものもあれば、やさしく降り注ぐものもある。
そんな音に包まれて、ゆっくり紅茶でも飲みながら本を読む。
わざわざ雨のなか、仕事に出掛けることもない。
ああ、なんて理想的な生活!
いまだに実現していないけど。
『美しい』
めったにないけど、雨上がりの虹。
葉に乗った、まんまるい雨粒。
雨に洗われた鮮やかな新緑。
水溜りに広がる波紋。
色を変える紫陽花。
この時期にはこの時期の美しさがある。
『どうしてこの世界は』
その言葉を聞いた時、彼女に対する疑念が確信に変わった。
呆然とした顔で零した彼女は、こちらのことなど気づいてもいないようだけれど。
今いる私たちのこの世界と比較できる対象を、彼女は知っているということ。
そう……
自分以外の転生者を見つけたら、嬉しいものだろうと思っていた。
実際は、とてもじゃないけどそんな気分でも状況でもない。
こんな形で出なければ、前世の話をして友人にでもなれたかもしれない。
でも、もう道は分かたれてしまった。
なぜ多くの転生者は、前世の価値観を捨てられないのだろう。
異端とされる行動に忌避感を覚えないのだろう。
新たな世界で生まれ育ったはずなのに。
拘束され引きずられるように連れて行かれる彼女と目が合わぬよう、そっと顔を背けた。
『君と歩いた道』
中学生の頃、毎日毎日学校の帰り道で友達とお喋りするのが止まらなかった。
いったい何をそんなに話すことがあったのだろうと自分でも思うくらい、楽しくて可笑しくて。
分かれ道で立ちどまり、30分も40分も話し続けていた。
何も後に残らない、他愛もなくくだらない話ばかりだったと思う。
思い出すのは、友達と自分の笑い声と長閑な風景。
今日も明日も、ずっとそんな日が続くと思っていた頃のこと。
彼女もたまには思い出してくれているだろうか。
『夢見る少女のように』
週に一度、施設に預けた母に面会する。
ここの職員さんは皆よくしてくれているようで、入所当時に比べたら嘘のように落ち着いている。
ほんの半年前までは、地獄の日々だった。
汚物にまみれ、徘徊し、奇声や怒声をあげて暴れる。
元気な頃を知っているだけに辛く、諦めきれず、なにより言葉の通じない獣のような姿に恐怖した。
いつまでこれが続くのかと、悪臭が染みついてしまった部屋で、出口のない奈落に落とされたように毎日を過ごしていた。
見かねた友人が提案してくれて、ネットでカタログを取り寄せ、何箇所も足を運んで、払えるギリギリの予算の中から、ここを見つけた。
「お子さんがみえましたよ〜」
そう声をかけられても、母は反応しない。
薄く微笑みを浮かべて、車椅子に座って、テラスの硝子ごしに庭を眺めている。
空いている椅子を引き寄せ、隣に腰掛けた。
その手を取って声をかける。
母はもう、私を認識していない。
それでもよかった。
こざっぱりとしたショートヘアで、清潔な衣服に身を包み、けぶるような瞳で、なにか楽しい夢でも見ているような。
少女に戻ってしまった母の姿が、美しかったから。