『ベルの音』
チリリン、と鳴らされたベルの音に考える間もなく体が反応する。
奥様は、待たされるのを殊の外嫌うのだ。
ましてやそれが、お客様をお迎えする日となれば尚更。
このお屋敷でのおもてなしは、いつも盛大に行われる。
昼食会も晩餐会も頻繁で、日常と化しているほどだ。
それは即ち、この家が国にとって重要であるということの証明でもある。
私の役目は、奥様が見苦しくない格好で――洗練されつつも相手より華美にならぬよう――時間通りにお客様をお迎えできるようにすること。
だからといって日常の業務が免除されるわけもなく。
私を含め、この屋敷の者たちは皆、軍事教練さながらの様相で如何に効率よく動くか、頭の中で次の作業を考えている。
それを中断するのが、奥様のベルの音だ。
何かを持ってくるように言われたり、用事や言づけを頼まれたり。時には会場の飾り付けをやり直すよう言われることもある。
奥様は決して我儘や傲慢ではない。
より良くお客様をおもてなしできることを優先されるだけ。
私たちは己が矜持において、それをこなすのだ。
チリリン、ともう一度ベルの音がした。
さあ、何を言われるのだろう。
どんな要求でも叶えてみせましょう。
『寂しさ』
さびしさは鳴る――という書き出しから始まる小説があったっけ。
溢れるみずみずしさに、なんとも詩的で青いなと思ったものだった。
私にとって寂しさとは、もっと仄暗くてカサついている。
なにかを求めても得られず、誰かを求めても寄り添えず。諦観を飲み込んだ先に、それはある。
咳をしても一人、と言った放哉の句の方が近しい。
愛や憎しみが人を狂わせるのはよく知られているが、寂しさもまた人を壊す。
冷えて乾いた心の薄皮がパリパリと剥がれ落ちてゆく音を、聞いたことはないだろうか。
『とりとめもない話』
どうも、今年の町内会班長の当番の者です。
お久しぶりですわね。夏にお庭に埋めてらしたアレのことでちょっと伺って以来かしら?
あの件はすぐに対処して頂けたみたいで、ほっと致しましたわ。ええ、お隣のSさんともね、話せば分かってくださる方でよかったって、こちらへ来る前に話してたんですよ。
時々ね、逆上される方もいらっしゃるから。
少し前にね、可燃物の日にゴミで出した人がいて、困りましたわぁ。幸いすぐに他の方が気づいて、こちらで処分しましたの。本当にもう、行政機関に知れたら大変なのにねぇ。
あら、いいんですのよ。こういうことはお互いさまですからね。
こちらとしても、事が明るみに出て警察やら報道機関なんかが出てくると、煩わしいでしょう?
なにより、ペナルティが科せられるのはなんとしてでも回避しないと……
ああ、いえ。そうそう、今日は町内会費を集めに来たんでした。イヤね私ったら、すぐ話が逸れてしまって。
……はい、確かに頂きました。と、こちらが領収書ね。
そうねぇ、痛い出費ですわね。他所の相場がお幾らなのか知りませんけど。でもまぁ、これで町内の平穏が保たれるなら安いものじゃないかしら。
あ、それと、お独りで暮らしてると伺ってましたけど、同居人の方が増えたのかしら? だとしたら、ご近所さんにも周知しないと。うっかり不審者通報してしまうといけませんからね。
え? 独り暮らしのまま?
あら、じゃあさっきからあなたの後ろを何度も横切ってらっしゃる方は?
ああ、なるほど。そんなに青い顔をなさらないで。そうですわね、お庭から床下に埋め直したんですものね。それなら家の外には出ないでしょうから、放っておいてもいいんじゃないかしら。
まあ、いざとなったら、ご近所トラブル処理係の方にお願いできますから。そのための町内会費ですもの。
あらいやだ! またとりとめもない話で長居してしまったわ。
それではこれで。ごきげんよう。
『風邪』
コポコポと音を立ててケトルから湯気が立ち上る。
湿気で曇った窓ガラスの外は、夜でもわかるほど重く垂れ込めた雲で覆われている。
私が住む地域はめったに雪が降らない。
雪と聞いて思い浮かべる景色は、実際には見たことのないものだ。
三好達治の詩の風景。
ぽつりぽつりと建つ和風家屋。
静かにしんしんと降り積む雪。
咳が出たので、またベッドへと戻る。
“風”に運ばれてきた“邪気”を体に引き込んで体調を崩すから、「風邪をひく」と言うとかなんとか。
ぼんやりと、いつもより回らない頭でそんなことを思い出す。
小さい頃は、親が林檎をすりおろしてくれたっけ。
プリンにゼリー。
くたくたに煮たうどんや玉子の入ったおじやもあったなぁ。
思い出すのが食べ物ばかりなのは仕方がない。
私にとって、「風邪をひく=寝込む」なのだ。
風邪をひいたとき限定のやさしい味を、懐かしく想う。
『イルミネーション』
“今までありがとう、でもごめん”
そんなメッセージが送られてきて、私たちの関係は終わった。
十二月に入り、年の瀬も押し迫ったこの時期に。
相手からしたら、年内中に終わらせて心機一転明るく新年を迎えたかったのだろう。
もう、次の恋人もいるようだし。いや、そういう人ができたから私に別れを告げたのか。
少し早めの大掃除が行われた仕事帰り。
通りがかったイルミネーションの並木道で、元恋人とその腕にしがみつくようにしてはしゃいだ声を上げる誰かを見た。
ふうん。
無意識に鞄の紐を握りしめる。
中には、ついさっき職場で使った塩素系と酸性の洗剤。
それと、返しそびれた部屋の鍵。
まぜるな危険、だっけ。
「天国への道は地獄から始まる」
と、ダンテは言った。
だったら、この美しい天上の風景のような道の先には、何があるのだろう。
綺羅びやかに輝く光の渦を抜けたら、きっとそこは真っ暗で。
ぽっかりと口を開いた地獄が待っているのではないだろうか。